ジャルジャルの決勝進出とM-1終了について

「M−1ファイナリストが意気込み語る!」:イザ!

ファイナリスト発表を受けて、準決勝を見てきた人たちの声を拾うと、やはりジャルジャルとピースへの賛否の隔たりの大きさが、話題の中心になっている訳なんですが、今年の爆質的な知名度上昇と、それに伴うタレント力とスター性の向上という要素が考えられるピースについては、特に言いたいこともないのですが、2005年から2007年ぐらいにかけて、熱烈に決勝進出を望んでいた身としては、ジャルジャルについて準決勝を見ていない身としても、触れざるを得ないでしょう。準決勝のは見ていないので、そのネタの評価は含まない形で進めていきます。
正直、自分のジャルジャルへの評価というのは、「英会話」とか「おまはん」の衝撃と、その後の進化への期待考えたら、ここ数年は立ち止まってる感は拭えないというのが、僕の現時点でのジャルジャルへの評価で、立ち止まっていることは、それだけで劣化だという手厳しいものです。
むしろジャルジヤルのネタの構造が分かっている人達が増えたことを良いことに、説明しなくなっているのは甘えでしょう。だから立ち止まっているというのも、相当に甘い評価で、質的にも劣化していると言えるかも知れません。ジャルジャルってまだテレビのプライムタイムの番組で、自分たちの個性や、どんなネタをする人達かということを、知られているということを前提にした番組をやって良い格の芸人では、まだないはずなのに、そういうネタをしていることがあるのが、僕には不満だし、それは停滞に繋がる甘えだと思っています。
僕は準決勝は見てないので、何とも言えないですが。褒めてる人の話聞いても、ダメ出ししている人の話を聞いても、決勝の審査員の好みじゃ無さそうなシステムのネタっぽいなあ。という気はするんですが、まあ期待半分、不安半分で見ます。
何というか漫才をアートかなんかと勘違いしている人が、お笑いファンの一部にいて、残念ながら準決勝審査員の一部にもいて、破壊やら革新やらという小難しい期待を乗せている人達が、笑い飯の「チンポジ」とかを過剰に褒めたりしているんだけど、でも笑い飯の「チンポジ」のネタにしても、本来のあのネタにはチンポジを延々と掛け合いで天丼する下りとかあったのに、さすがにそれはM-1ではカットしていたんだから、笑い飯ジャルジャル本人にそういうつもりがあってやってるのか? という風には思うけど、それは笑い飯がどう考えているかは、決勝で見せてくれるでしょう。僕は笑い飯M-1決勝でやった「チンポジ」の評価が低いのは、単にシモネタ、昔のネタというだけでなく、オリジナルの面白いところがカットされていたこと、カットして短くなった部分に、前半野球のネタを入れて二階建てにわざわざしたことなど、既存のネタをわざわざ弱くして、しかも二本のネタをつなげたことなどの方が大きいです。本当に「チンポジ」をやり切っていたら、評価は変わっていたかも知れない。4分チンポジしなかった段階で、勇気も挑戦も革命もあったもんじゃないよなあ、とかなんぼでも言えるはずなんだけど、「チンポジ」をやった事より「チンポジの改悪」をお笑いファンや笑い飯ファンなら語るべきでしょう。そこにやれ破壊者だ、革命だというのは、お笑い以外の邪な感情が混ざってしまっている。
こういうお笑いをお笑いとして本能的に見極めている人達が、結果的に技術派のほうに行くのは、漫才という表現の本質に向いてると思う。2006年のチュートリアルや、2007年のキングコングは、結構昔からやっているネタで決勝に挑んでいたけど、演じ方の違いで昔とはまるで違う印象の漫才をしていたけど、「漫才が上手い」っていうのはどういう事なのかが、よくわかってない人がお笑いファンに多いから、この辺がなかなか評価されない訳で、だから一時期M-1の決勝審査コメントが、技術論や稽古量に流れたことがあったけど、僕はあれはあれで正しい世間のお笑いファンへの啓蒙だったように思います。
そういう意味ではお笑い通とか、お笑いマニアほど、お笑いとは本質的違うものに引っかかりすぎて、お笑い見るのが下手になっていて、テレビの前のオバチャンとか、baseの女子中学生とかの方が、よっぽどお笑いを見るの上手いですよね(笑)。まあこの辺の人たちはこの辺の人たちで、違う邪な感情が挟まって、目が曇ることもあるんですが(笑)。
しかし漫才とは、演者がフィジカルを駆使して演じているもので、笑いとは感性よりも感情に訴える、身体性の強いもので、理屈は二番手にあるものだということを忘れると、芸人は袋小路に入ってしまうし、お笑いファンも視野が凄く狭くなって、芸術性みたいな言い訳無しには、お笑いを見れなく語れなくなる危険性があるのではないかと危惧するのです。
その辺の理解が、近年の発想至上主義で意外と抜け落ちてる。松本人志だってあの声、あの表情だからこそ成立している本は多いんだし、松本もお笑いは極めてフィジカル的なものだと、本人は分かっているはずなんだけどね、特に漫才は演技と構成が全てぐらいに見ても良いような気が最近している。
一番ゲンナリするのは、新ネタといって設定とキーフレーズだけ違うだけで、代表作のネタをそのまま焼き直しているだけの漫才やコントを、新ネタとしてやたらと評価されたりしているのは、一番だれるかなあ。特に漫才は演技と構成が全てぐらいに見ても良いような気が最近している。
やっぱりジャルジャルこの時期に、決勝に大抜擢するべきだったんじゃないかと、こうして実際に決勝に行ったのを見ると、考えてしまうなあ。2005年とか2006年の決勝に、NON STYLEジャルジャルがいたら、もっと凄い大会になっていたんだろうなあ。この時期はラストチャンスに燃えるストリークやロザンも元気だったし、磁石や流れ星も良い漫才をしていたし、なすなかにしジパング上陸作戦のように、その後で調子を落とす人達も、準決勝や敗者復活戦で爆発した年もあって、この時期もっと良い審査が準決勝で行われていたら、M-1ってもっと華やかで伝説な大会がいくつも生まれていたと思う。
あとTwitterで、一部の芸人がM-1の予選審査員の傾向とかを、分析しすぎているのではないか? というつぶやきを見たんですが、それは無いんじゃないでしょうかねえ。ロザンとかキングコングとか、東京ダイナマイトとか、そういう傾向に陥っていた芸人はいますけど、その人が想定していたbaseの芸人とかは、そこまで考えていないというか、そこでギアチェンジする器用さは持っていないように思います。というかそういうことが出来ていたら、本当に巧く嵌るネタを持って来れそうな気がするのです。

お笑いナタリー - M-1グランプリ、今年の大会をもって終了

お笑いファンではない人達が、そろそろ潮時だから終わって当然じゃん。というような反応が多いけども、やっぱり予選のドル箱興業っぷりを現場で見ている人たちにとっては、吉本がこんなおいしい興業を終わらせることが、にわかに信じられない人は多いと思うよなあ。というかテレビ界の人でTwitterとかブログで、マジで驚いてる人も多いし。業界の人が驚くんだから、そりゃお笑いファンも驚くよね。
しかもハライチなんかがそうだけど、ここ数年入ってる漫才師って、「M-1にでたくて漫才師になった」という層がかなり占めてるから、単に難民が出るだけじゃなくて、新規の芸人なる人とかの影響が大きそうだし、養成所ビジネスとかに影響がでかそうなわけで、NSCやってる吉本はもちろん、他のお笑い養成所やってる事務所からしても、「ちよっと待ってくださいよ」という感じじゃないだろうか?
パンクブーブーが売れなかったから、M-1は終わることになったとか言ってる人も多いようだけどM-1優勝してから一年後なんて、フットボールアワーブラックマヨネーズも、いまのパンクブーブーよりテレビで露出していなかったんだから、そういう問題でもないだろう。
まあでもこの感じだと、吉本も朝日放送も、次にまた何かをやる気満々っぽいコメント出してるよね。結局、島田紳助にとって荷が重い大会なってきたから、紳助が離れて、彼が名付けた“M-1”という冠は外すというのが落とし所かな? まあただ実際それをすると、紳助がケツを持っていたということが、いかにM-1と他の賞レースの価値の違いを生んでいたか、というのを分かりやすく浮き出してしまうと思います。
とりあえず某板で元芸人の人がいってるけど、「吉本や松竹が売り出す気のない大阪芸人が東京のスタッフに見つかる機会」というのは、M-1が無くなったことで今後激減することは間違いないんだよなあ。敗者復活戦までいってチャンスの尻尾掴んだ芸人も多いだけに、ここが大阪勢の問題だよなあ。