『M-1グランプリ2009』振り返り〜今日の記事に補足のつもりが、本文より長くなっている。

こちらの記事への追記補足的な感じです。さっき書いたことを、かなり繰り返し気味です。
結局、笑い飯に関しては、あそこで「チンポジ」をやったのは、悪ふざけ以外の何物でもないんですよね。ただ優勝を諦めていたとかでもなく、「悪ふざけでも優勝できる」という可能性に賭けたんだと思う。だから体制の打破とか常識を覆す、といった類のものを期待している人は、そういうの見たい人は、他のジャンルの娯楽とか、もっと地下な活動の芸人さんを探してみてはいかがでしょうか? というしかないんですよね、M-1決勝じゃなくて、二回戦とか観に行ってみてはどうでしょう?
シモネタとか不謹慎なネタというのは、そのまま見せてしまっても面白くないんですよね、どうやってその人なりのオブラートを被せて、そのオブラートというのが、芸人の個性であり、センスの勝負なんだと思う。ケンコバがテレビ出だした頃に、下ネタをここまではOKかここはダメかというラインをビビリながら、ちょっとずつ侵していくところは面白かったけど、いまはもうケンコバなら何言ってもOKになったせいで、ケンコバのテレビでのシモネタってつまらなくなった。というか本当はもうタブーなんて無いんですけどね、鶴瓶さんが生放送でご開帳したの、何年前だって話じゃないですか(笑)。そういう意味では、タブーをやっているなんて評価は、やっぱりもう意味を成していない。
人や年齢によってはシモネタや死をテーマにしたネタは、絶対的な拒否反応を示す人がいるのは間違いありません。僕は肉体の奇形を扱う、それを笑いにするネタが全部ダメなんですが、鳥人なんかも凡庸な漫才師だったら、絶対に奇形とか障害を思わせる表現使ってしまうんですが、それが無かったのが、あのネタの笑い飯の凄さで、それが無かったのが二本目のラグビーのネタだった。
ザ・パンチの「死んで〜」の露骨に死んでといわずに、面白い死に方を提示していくバージョンとか、芸人のセンスとかはそういう言い換えとか、最大限伝わるようなニュアンスを見つけていくことに、出てくるんだと考えています。パンチは「死」を扱うテーマを、上手く引かせないように、伝えるようになったから、M-1決勝に手が届いたのに、肝心の決勝では「死」が生で伝わる漫才になってしまったのが、去年の最下位となった敗因だった。
いまは死とか宗教とかシモネタを、若手芸人はさらっと安易に笑いが取れるネタとしてやってしまうのは、芸人側にも、もはやそういうことに反逆的なイメージはない。楽に笑いが取れて、危険な事していると評価してくれる、という選択肢になっている。だから葬式コントや、学校のいじめの再現コントがやたらと増えている。
東京ダイナマイトに関しては、例えばあの台本をそのままで、NON STYLEキングコングオジンオズボーンが演じていたら、君たちはそんなに絶賛していたのか? という考えは過ぎっている(笑)。

M-1に批判的な人もいるけど、M-1なかったら、21世紀に普通に漫才って遠い将来の滅びに向かって、停滞期に見えるような緩慢な衰退が、延々と続いていたと思う。M-1が無かったら、今頃漫才って、落語や講談のように伝統芸能としてしか生き残ってなかったと思う。そのぐらい90年代後半の漫才の環境が最悪だったの、みんな忘れてるんだよ。大阪でも漫才やってる芸人は少数派だったし、東京だってテレビに上がってくる芸人は、ほとんどがコント芸人だった。爆笑問題とか、浅草キッドとか、キヤイーンは漫才やっていたけど、ほとんどテレビで披露する場所なんて無かったわけですし。それをお笑い界の最前線にまで押し上げなおして、いまも良くも悪くも、こうして盛り上がれるM-1の功績は絶大すぎる。だから僕は、元々滅んでたものを甦らせたんだから、M-1が漫才について、絶対的な地位を占めることについて、批判的にはとてもなれない。もちろん同じ功労者にはオンバトもあるんだけど、ただオンバトはお笑い界の中のムーヴメントで、M-1やエンタ、レッカペなどの後のブームのファームにもなったけど、お笑いブーム的には地ならしの重大な存在であって、どちらかというとお笑いの中の人たちを、次のブームに向かうために締める役割だった。
M-1にしてもR-1にしても、ヤラセとか出来レースって言う声もあるけど、結局は自分達が結果に納得できないから言っているだけなんだと改めて思った。しかもいまのM-1批判は、「笑い飯やオードリーが二本目のネタの質が低かったから、優勝できなかった」というだけの話を、審査員の問題やM-1という大会の問題、大きなお笑い論やM-1論にすり替えて語っているだけで、世間が面白いと言っていて、審査員も大御所の芸人さんが自信のプライドと名声を賭けて評価しているのに、それをヤラセだとか、審査員の質やお笑い論にすり替えてるだけになっている。単に「俺の好きな○○が勝てないなんてむかつく」って言えばしまいの話を、理論武装して語っているだけでしょう。
実際に普段お笑い見てない人ほど、去年のノンスタや、今年のパンクブーブーの優勝について、「一番面白かったやん? 優勝に不満が出てる? なんで?」っていう反応ですからね。これは「その通り、ソースはうちの親」といった反応をいくつかTwitterで頂きましたが、自分の周りでも改めて色々聞いたらそんな感じでした。とりあえずM-1がダメだっていうのなら、代案をきちんと示して欲しいですよね。「オフィス北野が主催で我々が審査する」とかのレベルで良いからさ。
でもねお笑いとか、漫才というのは大衆文化だし、テレビ演芸に特化した漫才というのがあって、それのチャンピオンを決める大会として『M-1グランプリ』があるんだから、そりゃ世間が一番面白いと思ったNON STYLEパンクブーブーか、きちんと優勝する大会になりますよ。だって審査している人たちは、その争いに何十年も勝ち進んできた人たちなんだから、そこの目線がバッチリなのは当然でしょう。そしてそういう人たちが審査することの安心感、公平感というのが、M-1という大会の価値を、固めたんじゃなかったの? 年末のゴールデンタイム特番として、最高のお膳立てで漫才を見せるという、テレビショーのコンクールでしょ?
M-1の決勝のコンセプトは、「現役の漫才師や一流の芸人が、その日一番面白かった漫才を決める」ってことでしょ? 一体どこがどうブレて変質したのか、教えて欲しいよ。一部のお笑いマニア以外は、みんな去年はノンスタ、今年はバンブーが優勝だというのに納得してるんですよ。漫才をメジャーで大衆に売れるコンテンツにするのが、M-1の役割だったんだから、何にも矛盾していない。何回も言うけど過去の優勝者の名前をあげていけよ。結局は大竹まことが、一人だけキングコングに最終決戦で投票したら「審査員として浮いている適していない」と批判して、 翌年にオードリーに少数票を入れたら、「さすが大竹まことは分かっている」というのが、いま騒いでる連中の正体だと思っている。
別にお笑いが先鋭化とか、分かる人にだけ分かるという路線に特化して欲しいと思うのは自由ですよ。ただそれをやっている芸人は売れないけど良いの? もしくは芸人を続けるために、そういう人たち一人一人が、もっとお笑いに投資してあげないと、芸人が食えなくなりますけど、劇場とか行ってあげてくれるの? いまの安いお笑いのライブのチケットが、もっと上がっても行ってくれるんでしょうか?
現実に笑い飯や千鳥が大阪で、劇場に客呼べてないのを見て、その現状を踏まえると、大衆に指示されなくても、テレビで売れなくても良いといえるの? っていう話なんですよ。特に笑い飯はテレビにもあんまり出ていない、東京にも呼ばれない。紳助や松本ですら番組に起用しなくなっているのは、オレは普通に寂しいし、この状況を打破して欲しいと思うよ。
もちろん新しい漫才がいらないとは思ってない。ただ「新しい漫才」だって騒いでる連中の評価している漫才が、新しい漫才とも思えない。本当に新しい漫才をM-1決勝で提示したのかな? 僕はM-1は決勝、決勝の審査員も審査慣れしている人が増えてきて、凄い良い方向に進んでいると思います。準決勝の審査員がまだそれに完全には追い付いていないけど、でも一部の人達が言ってる「理想のM-1」なんて、最初からどこにも存在していなかったと思う。まあそれだけマニアな人たちには、2001年の麒麟、2002年の笑い飯が強烈なイメージだったんでしょうが、でもその年の優勝者は中川家ますだおかだなんですからね。
そしてNON STYLEパンクブーブーの漫才を、「女子どもでも理解できるようなレベルの低い漫才」っていってるような人たちが、どういう漫才を正しい新しい漫才と言ってるかというと、何の工夫もしていないむき出しのシモネタだったり、世代を限定するあるあるネタだったりが、実情だったりするんですよね、そういう発想力や、インパクトのある言動が残りやすいネタが、引っかかりになる人たちがいる。
でも発想や言動がいいだけでは食えないでしょう、と。たけしさんだって、さんまさんだって、タモリさんだって、所さんも、ウンナンとんねるずダウンタウンも、一つ一つの要素に特出したところはあっても、メジャーで売れた理由は、トータルパッケージとして優れているからじゃないですか。それなのにパラメーターの一項目だけ評価される風潮はどうなのかと。そこに特化しても芸人さんは食えないです。まあだから芸人やお笑いマニアには、大喜利番組やコーナーが流行るんでしょうが。あれはお笑いファンの中の人たちのブームでしかない。
笑い飯はあそこでチンポジやってしまうことだけが、魅力じゃないと思うし。それだけが魅力のように語られているのは、やっぱりそういう語りする奴は、笑い飯のこと評価してないだろう。という風にしか思えないし。東京ダイナマイトだって、千鳥だって、POISON GIRLBANDだって、世間受けする方法はいくらでもあるのに、スターになれるのにそり道を歩めてないのは、僕は不幸でしかないと思う。
全盛期のビートたけしのような毒や、とんねるずのような破壊衝動を芸人さんに求めても、いまの時代には意味がない。世の中は浮かれているのに、そうじゃない僕たちという感情が芸人にもお笑いを必要とする人たちにもあったのが、バブルの頃までのお笑いだったんだと思う。でもいまは現実の方が大変だから、お笑い的に一時の快楽的な物を求めるのは正しい、時代に合わせた進化だと思う。
そんなに漫才を大衆文化から外したいの? M-1って地上波のテレビコンテンツですよ? その手の期待をする場所なの? だから大衆向けの漫才をやっている人たちの評価が高くない。現在のお笑い界の状況は、不幸な列車にみんなしてGo!しているとしか思えないのは、90年代の大阪のお笑いブームとその破滅見てるからなんだろうなあ。ゲームでも音楽でも、大衆文化からは私語を外すような連中の声が大きくなるのは、その業界の破滅の道でしかないよ。実際にお笑い界って、90年代に東西共に酷い目にあったの覚えてるからね、あんな不幸な状況はもう二度と勘弁してもらいたい。

今のお笑いオタって、昔のロッキンオン的なにおいがする。

というか実際に、その手のサブカル語りがきっかけで、お笑い見るようになったり、語るようになっている人が多いんじゃないの? 実際にいまお笑い語っている商業誌なんて、ほとんどその流れじゃないですか。自分は最初にお笑いブログ始めた時から、仮想敵に設定していたのは、その辺だったりする。

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