レベルが高いものだけを愛してるようでは修行が足りない

芸人もファンも、おもんない芸人を愛せるようになったら、一つ位が上がった感じがする。自分はまだまだその次元には辿り着けてないけど、自分の好きなジャンルに対する無限の愛というのは、関わるもの全てをどれだけ愛せるか、思えるかということが一番重要なように思う。
上岡龍太郎が「どうやっても面白くなることはない、ダメな奴というのは、私たちが見たらすぐに分かる。でも同じ世界にやってきたというだけで、そいつはもう同志なんだから、自分を頼ってきた以上は、最後は助けてあげないといけない」という説教を紳助とダウンタウンにしていたのが、すごい印象に残ってる。
この上岡さんの説教が良いのは、その前提に馴れ合いがないんだよね。本当に最後というか、芸人なんて仲良くする必要はないけど、でも根底で全員が同志なんだよ。というすごい深いものが沢山ある重要なことを伝えていると思う。
だけどそういうのが通用しなくなっている。一部のお笑いガチンコ主義みたいなのが、弱肉強食的な淘汰の方向に向かっているのと、そういう人達だけで、自分たちは面白いと認め合って、芸人全体を愛するという方向ではなく、仲間内だけの馴れ合いに向かっている。
そんなことを思い出させたのが、Twitterに流れてきた、このbotでした。

ビートたけし明石家さんまが、ヨレヨレになった欽ちゃんに引導を渡したように、腐ったようなぬるま湯バラエティをお笑いとはきちがえているエセお笑いのやつらを田舎へ送り返してくれることを望む。(何がなんだがより)
Twitter / @ナンシー関ボット: ビートたけしや明石家さんまが、ヨレヨレになった欽ちゃ ...

ナンシー関の嫌いなものに対する、こういう態度って、いまから思えば生理的に女性らしい所だったよなあとか、最晩年の松本人志信者のこじらせっぷりも含めて思うところはあるんですが、そういう面って魅力としても欠点としても見られてなかったですよね。言い回しだけが乱暴なだけで、知性的な面ばかりが強調されていたし、今もそういう評価が引き続いているように思う。
ナンシー関が亡くなってもう八年になるけど、この人の評論というのか、世の中に対するシニカルな構えというのは、90年代的だったなあというのは思う、正直2002年に亡くなったというのは、いま調べて意外だった。もっと前に亡くなっていたような気がしていた。
僕は生前そんなに熱心な読者ではなかったので、ナンシー関の功罪というので、あまり語られない罪の部分ついては、信奉者じゃなかったテレビ好きとしては、一度語っておかないといけない。というのは前々から感じていました。
とりあえず本人の責任ではないところが多いんですが、ナンシー関の信奉者たち、そして大量に発生したフォロワーやエピゴーネンが、同じような論評を縮小再生産するようになって、ナンシー関的なテレビ、特にバラエティの切り取り方というのが、一方的に正義になってしまった90年代後半からゼロ年代前半というのが、結果的に一番テレビバラエティというジャンルを壊してしまった。
結果的に「レベルの高いもの」とか「ぬるま湯でないもの」という価値基準が、一部の人達が認定するものになってしまって、その仲間内に入れたら「レベルの高い笑い」になって、その輪に加われない人が「エセお笑い」と認定される。というような歪な認証期間が出来上がってしまった。

ナンシー関ボット (nancy_seki_bot) on Twitter

まあナンシー関も、いまの「芸人総馴れ合い化」状態は予測できなかったろうし、その片棒を愛する松本人志が担ぐことになるとは、夢にも思えなかったろうなあ。早逝は残念で無念なことだけど、現在の松本人志を見ずに逝けたのだけは、幸せなことかも知れない。
とりあえずもうテレビは、ナンシー関が存命の頃とは、すっかり変わってしまっているんだから、芸人やお笑い評論家、ブロガーなどが、いまだにナンシー関の発言を引いてくるのは、もうそろそろ止めとこうよ。まあ自覚無くナンシー関が言ってたような言葉を、さも自分の言葉のように言ってる連中よりは、まだマシだとは思いますけどね。
いや最近ナンシー関の著作をまとめて呼んだんだけど、もうどれもこれもどこかで読んだことがあるような、聞いたことがあるような論評や、切り取り方だらけで、いかにナンシー関の死後にフォロワー、エピゴーネンが出まくったのか、良く分かりましたよ(笑)。でももうそろそろナンシー関のいた時代とは違うということを、しっかり提示しないとダメでしょう。若い世代で直接見ていない人達は、間接的に影響受けたり、孫フォロワーになってる場合じゃない。

4041986079何が何だか (角川文庫)
ナンシー関
角川書店 2002-04

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