ナインティナインの岡村さんが「笑いの神様っていんねんな」と思った瞬間 : 活字中毒R。

チェッカーズのメンバーが作曲家の芹澤廣明に、デビュー当時のアイドル歌謡曲路線に反発したら、「この歌は絶対に売れるから、いまは我慢して唄え」という説教の中で、「売れたら一流の人たちと仕事が出来るようになる」「その後の方が自分たちのやりたい事をやりやすくなる」と言われて不満に思いながらも従って、それで売れてからその意味が分かった、一流の照明や音響のスタッフが自分たちのやりたい事を実現してくれる事、一流のアーティストとの交流の機会が、自分たちを成長させてくれたという話をメンバーがしていました。
「自分のやりたい事をする」にしても「自分の腕を磨く」にしても、売れてから一流の人たちとそれを実現していく事、要求されるレベルの高い所で揉まれる方が、人を成長させるという事、最近よく思うのです。だからアイドルからバラエティに流れてきた人の方が、お笑いの芸場でも活躍しているのが見られるのは、早い段階で一流の人たちと接して揉まれてきたというのは、やっぱり凄く大きいんだろうなあと思います。そういう経験値というのは、物凄い差となって跳ね返っている。
そんなことを考えているときに、この岡村さんの記事に出会いました。この記事は最後の岡村さんが「笑いの神様」を引き寄せた一歩という方が、話題になっていますし、それも面白いテーマですが、こちらの方が印象的でした。

プロデューサーから、こういわれたこともある。
「そんなネタで笑うわけないよ。あのカメラマン、志村けんと一緒にやってきた人だよ。そんな小細工は通用しない。いまの頭を壁にぶつけるシーンだって、志村けんならどうしてたか」
そんな問いかけをプロデューサーから投げつけられて、岡村たちは成長を続けていったのだ。
ナインティナインの岡村さんが「笑いの神様っていんねんな」と思った瞬間 : 活字中毒R。

ナイナイが「志村けんならどうしていたか?」なんて課題を与えられて、常に叱られて教育されていて、とんねるず志村けんといった人たちの中で戦っていたときに、一方の大阪に残っていた芸人達は……という話になってしまうんですよね、あの頃は「大阪お笑い原理主義」みたいなのが、一番若手芸人を巡る環境で蔓延していた頃だったから、凄いナイナイはボキャブラと共に馬鹿にされている雰囲気もあったけど、そんなハイレベルな所で揉まれていた人と、大阪の狭い所で自我を増長させていただけの連中だと、そりゃ他の当時の大阪の芸人が、その後にナインティナインに突き放されるはずですよ。
今日打ち合わせ先で、同世代のお笑い好きの人と天素前後ぐらいの時期の関西のお笑い界の話になったんですが、いま通説みたいになっている、天素あたりの頃の大阪のお笑い状況って、結構当時の当事者が言ってる事がみんなズレていて、例えばナイナイと雨さんとバッファさんだったら、言ってる事みんなバラバラなんですよね、僕は当時ファンとしてみていたから、その頃の話をしているのを聞くと、時系列間違って記憶しているなという話する人も多いんですよね。
一部の定説になっているので、天素は立ち上げの頃ぐらいから、というか立ち上げ前ぐらいから、ナイナイが一番人気で天素はナイナイを売り出すためのプロジェクトだった、みたいな話になってる事があるんですけど、それは事実誤認だと思うんですよね、確かに大阪の賞レースとか、この頃はナイナイが総ナメぐらいの状態だったけど、ナイナイが賞取ったときも事前の下馬評には、あまりナイナイって上がってきてなかったはずなんですよ、そもそも大阪での人気とか、お笑い界の評価もナイナイより先輩というのもあるけど、ナイナイがABCで大賞取る前ぐらいだと、ベイブルースより下の世代の芸人さんの中だと、雨上がり決死隊が断トツの一番人気で評価も高くて、各賞レースでも事前は大本命になっていたし、テレビなどへの露出も一番早かった。それで次がFUJIWARAバッファロー吾郎で、次がジャドリストで、そしてマニアックなファンがへひいちごと言っていて、ナイナイはチュパチャプス、千原兄弟ジャリズムあたりで一団ぐらいが、当時のリアルな大阪での人気でもあり、評価でもあったと思うんですよ、天素はそもそもナイナイの売り出しのためのユニットということはなかったはずです。だって当然ナイナイって、僕は凄い大阪時代ファンだったけど、大阪でそんなに目立ってもいなかったし、吉本の若手が出るテレビとかラジオにも、ナイナイはあんまり出ていなかったし、各賞レースでナイナイが勝ったときも、どっちかというと「なんで雨上がり決死隊FUJIWARAバッファロー吾郎じゃないの?」という声は、大阪のお笑いファンや芸人の先輩・関係者に多かったように僕は記憶しています。同じNSC9期生でもへびいちごの方がナイナイより露出していた記憶は、天素以前にはあります。
怒涛のくるくるシアター」なんかでも、天然素材として呼ばれているはずなのに、ナイナイとチュパチャップスは呼ばれていなかったりしてたし、トミーズがやっていた夕方の情報バラエティにも、「2丁目劇場の若手軍団」みたいな群れで出ていても、ナイナイってなかなか入ってなかった記憶がありますし、「死ね死ね団」からの流れを知らなくて「吉本印天然素材」のメンバー見たときに、なんで千原兄弟ジャリズムが入っていなくて、ナインティナインチュパチャップスなの? って思った人は多かったぐらいの感覚でした。
ナイナイだけが突出して吉本的にも戦略的に売りだそう、バックアップしていこうというのは、天素がパッケージングされて東京に行ってしばらくしてからで、なんかパイオニアのLDプレイヤーのCMやっていた頃ぐらいの、ナイナイだけが東京の現場で優遇されだした記憶が、天素結成前後ぐらいの時期の記憶と混在してしまっているんじゃないか? と思うんですよね、東京で天素がブームになるまでは、ナイナイって大阪ではそんなに目立っていなかったし、タレント性とかを強く買っていたのって、本当に一部の人たちだけだったはずですよ、やっぱり東京に行っていきなり花開いた印象が当時残っています。天然素材が東京に行ったとき、大阪のお笑いファンで、ナイナイだけが突出してブレイクして、後は全部失敗するなんて予測出来た人はいなかったと思う。そのぐらい大阪では雨上がり決死隊FUJIWARAバッファロー吾郎の方が人気もあったし、売れていたし、この辺でぜんじろうさんなんかも含めて、天素の記憶ってかなりみんな曖昧で、時系列なんかも間違っている人が多いけど、それは別に誰が嘘付いているとか言う訳じゃないんですよ、記憶ってそのぐらい曖昧になるもんだし、無意識のうちに改竄されてしまうものですから、だから僕もここまでの記憶が間違っていないか、中断してこの頃の事知っている友達に確認の電話しながら、これ書いていました(笑)。ただ僕も友人も、大阪で当時、天然素材関連の番組って大阪では全く放送されていなかったから、東京でどうやってナイナイだけが立場作っていったかはリアルタイムに実感できていないところはあるのも事実ですが。
結局、天然素材がナイナイだけがすぐに売れて、他がみんな大阪に帰ってきて、その頃には千原兄弟ジャリズムの二頭体制で「2丁目WACHACHAブーム」が起きて、その後で雨上がり決死隊の東京再挑戦と、千原兄弟ジャリズムが満を持しての東京進出だったけど、結局その時は上手くいかなかった、雨上がり決死隊も時間がかかったし、千原兄弟ジャリズムも当初の期待を考えれば、いまだに成功と言えるほどの結果は出していないけど、その間にナイナイは「志村さんならどうしていたか考えろ!!」という説教に晒されながら、明石家さんまとんねるずと組み手していたわけで、そりゃ雨さんはしばらく対抗出来なかったし、千原も勝てなかったわけだよなと思いましたよ、「東京のテレビの軽いお笑いとは俺たちは違う」みたいな事を言いながらも、結局狭い所に関西の若手お笑い界が閉じて行っていた時代だったんですよね、僕はこの時期に千原ジュニアの事を「J」と呼んだりするノリが嫌いで、2丁目メンバーでコンサートやって格好付けるみたいなのが、本当にダメだったんだけど、偉そうに「東京のテレビとは違う、俺たちがやってるのこそが本物だ」とか言っていて、やっている事は上半身裸で歌のコンサートかよ、というのは凄い思っていたし、それがbaseよしもとになって、メンバーも大きく入れ替えて、歌のコンサートとかもまだやっていたけど、僕はだいぶ大阪のお笑い界は良くなってきたかなあと思っていたけど、なんかまた最近、大阪のお笑い界が2丁目後期のような閉鎖感が出てきている気がしていて、そうなったときにナイナイ岡村のような経験を積める人がいるのが、凄い気になっていますし、実際例えばそういう経験を積んでいる、東京のお笑い芸人に負けるならまだ良いけど、WaTとかタッキー&翼とかに、ガチンコで戦ったとしても、笑いの現場の経験値で負けてる可能性を俺は凄い危惧しています。
だって実際に大阪の深夜番組とかで、芸人さんと共演していても「関ジャニ∞の方が面白い」というのを、さっき電話で言われてしまったんですが、やっぱりそのぐらい高いステージでの経験、一流との共演って大事だなと、その為にはまずとりあえず何でも良いから売れる事を、目標にするというのは悪い事じゃないというか、必要な事じゃないかと、改めて思いました。

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