「M-1グランプリ2007」4位以下の感想の感想 その2

4位以下だった所で、笑い飯と千鳥だけ分けました。この二組に関しては、同じ根深い問題があるように思います。麒麟やダイアンはもちろんですが、他の大阪勢と比べてもこの二組だけが持つ似た問題です。
M-1グランプリの準決勝で審査員をしている中で、唯一かわら長介氏だけが、自身のブログで明確に自らの審査基準といえるものを述べています。M-1グランプリABCお笑い新人グランプリという予選会で自身が審査員を務めている漫才コンテストに対して、どういう漫才を求めているか、どういう漫才をするべきかと言う事を情熱的に語っておられて、僕も以前に紹介させて頂きました。
かわら長介の主張は色々とありますし、また彼が好まない傾向としては「アニメマンガなどを題材にしたネタを嫌う」「よくある設定を嫌う」、また「漫才の形を逸脱している」ことや「キャラクター漫才」に対しても、個々のネタの審査コメントを見ていると厳しい事が伺えるなど、色々と傾向はあるのですが、彼が大事にしている一番のポイントは漫才に「テーマ性やメッセージ性があるか」というのを一番重きを置いているというのが分かります。
漫才師という仕事は選ばれた職業であり、それを選んだ時点で芸人には使命がある、漫才という表現方法で、自らの主義主張を伝えるべき、小手先で題材を茶化しただけのネタで目先の笑いに走る姿勢を、厳しく断じる姿勢は、賛否両論は多くあると思いますが、僕は素晴らしい見識と情熱を持って、こういった審査の場に挑んでいることには尊敬と敬意の気持ちを持っています。
しかしそんな審査基準と、実際に選ばれている審査結果に、僕は非常に矛盾を感じています。果たしてこういう基準に、かわら長介が拘っている千鳥や笑い飯が叶っているのでしょうか?
笑い飯の初期のネタ、僕たちの目の前に現れたばかりの頃の笑い飯の、「Wボケ」という言葉で形容されるようになりましたが、むしろ「ボケ合戦」と形容すべきだったような情熱的な二人の戦いのような漫才は、笑い飯という新しい漫才のテーマが出ていたし、「俺たちは面白い」という強烈なメッセージがありました。別に「Wボケ」の漫才なんて、彼らの発明でも何でもないですよね、二人ともボケでツッコミがいない漫才なんて、初期のシャンプーハットもやっていたし、笑い飯の発明であり魅力は「どっちが面白いかを漫才中にコンビ内で競い合う」ことにあった。
だから今回、ラサール石井もそういう感想だし、「やってみるさ」さんも書かれているように、「淡々としていた」という感想の人が多いけど、別にそれは今回のM-1だけでなく、笑い飯自体がそういう傾向のネタばかりに新ネタはなっている。

一部のお笑いマニア以外は
「新しい笑い飯」よりも、むしろ
「『奈良県民族博物館』の感動をもう一度」と
思ってるんじゃないか?と。
だから、優勝する為には「哲夫VS西田」の熱の篭ったネタを
2つ用意する事だと思います。
M-1グランプリ2007レビュー : 一汁一菜絵日記帳

去年とかがそうですが、決勝三組に入る事がそんなにレベルが高くない年だったら、例えば「箸で蠅を掴む」とか「肩たたき」とかのネタの方が、世間が期待している笑い飯の形であり、笑い飯の熱が伝わる漫才を見せられるのではないかという気がしています。
だって今回の漫才見て、何か伝わるものがあるかと言われたら、「哲夫と西田が仲良し」ということしか伝わらなかったもん、そんな二人が仲良しなんて事は、かわら長介理論で言えば、わざわざ年の瀬のゴールデンタイムの晴れ舞台で見せなくても良いよね、ということなんですよね。

なんでも、このネタ10分あるらしくて
もしかしたら、その中でももっといろいろ変形しまくるんかも
知れませんけど、だとしたら編集が下手くそすぎ。
M-1グランプリ2007レビュー : 一汁一菜絵日記帳

僕は2005年の「お誕生会」のネタは、この話の流れでは笑い飯の後期ヴァージョンに入るネタではありますが、僕はかなり好きなネタですけど、それでも元々長かったネタがM-1の4分に削られたときに、僕が一番笑った下りがカットされていて残念に思ったのですが、長いネタを短くするときの編集が下手というのはあるかもしれないですね。
漫才の革命戦士みたいな情熱が伝わる「ボケ合い漫才」だった頃に比べて、いまの「仲良しごっこ」になってしまった笑い飯に対して、島田紳助松本人志という笑い飯支持者の急先鋒だった二人が、どんどん点数という分かりやすい形で評価落としているのは、「手の内がバレていて不利」とか以前の問題として、笑い飯からパッションを感じなくなったというのは、世間が「淡々としていた」と感想を残すぐらいだから、プロの二人はもっと敏感に反応したんじゃないかな?
本人達が聞いたらもちろんそんな事ないと否定するでしょうけど、端から見ていて笑い飯の二人が、どうも現状に満足していて、それが凄い低温な漫才になってしまっているように思えて仕方ないです。そして笑い飯の魅力はやっぱり熱がこもっていてと思うんですよね、2002年とか2003年の本当に無駄に無闇に熱くて、とにかくボケたい面白い事がしたいという思いが、暑苦しいぐらいにあったのを、みんなまた見たがっているというのが、凄い「淡々としていた普通だった」という感想が多く寄せられている事で、はっきりしたんじゃないかな?
でも例えばこれは僕も伝聞だから、本当に言ったかどうかは分からないし、多分にファンサービスの色合いが強い言葉なので、本心かどうかは微妙だとは思うんですが、なんか「東京には行かない、大阪でやり続けていきたい」というよくある関西芸人のリップサービスの際に、「baseよしもとに一生いたい」みたいなこと言ってたらしいんですよね、それは自分が育ててくれた劇場でずっとやっていきたいというのは、物語としては美しいかも知れないけど、そこに収まる存在で終わる宣言してしまって良いのか? という思いは凄くするんですよ、少なくとも島田紳助は大阪の若手の劇場に収まる存在ではないと判断したから、99点なんて点数を付けたわけだろうし、なんかこういうエピソードの一つ一つが、最近の笑い飯にスケールを感じない所なんですよね。
しかし笑い飯は大阪で今テレビレギュラーといえるようなものは、テレビ大阪の土曜日の朝の子供向け番組だけという状況で、満足できる状況なわけないのに、満足しているように見えてしまうのは、やっぱり笑い飯に寄せられている期待の大きさを考えれば、俺はやっぱり問題だと思うし、もし本当に満足しているのか、それかもちろん満足はしていないけど、達観の境地にいってしまったのか、どっちにしてももしそうだったら僕たちが面白すぎて感動したような、笑い飯のあの漫才はもう帰ってこないように思えてしまう。
でも実際問題、関西ローカルのテレビ番組で、笑い飯って漫才番組以外では、ほとんど見なくなった分けじゃないですか、一時期関西の深夜のバラエティとかでMCとかで起用されていたけど、「出来ない」というレッテルをどうも貼られたっぽくて、それ以降驚くぐらいテレビで笑い飯見なくなって、いま調べたら15分番組一本のレギュラーしかないという状況で、彼らが大阪に拘る必要あるのかなという気もしています。麒麟より先に笑い飯をbase卒業、即東京進出させても良かったんじゃないでしょうか?
そういう環境を変えて、大阪では一緒に仕事出来ないような人と共演したり、笑い飯を使いこなしてくれるかも知れないスタッフも、東京の方が出会える可能性は高いだろうし、劇場で漫才だけやっていく道に進むにしても、笑い飯の漫才ライブだったら大阪より東京の方がお客さん入る気がするのよね、とりあえずいま笑い飯は凄い満足しているのか、達観しているのか分からないけど、停滞しているというのは間違いないと思うので、そして大阪で停滞というか、はっきりいって腐っていた芸人が東京に活動拠点を移す事で復活した事例というのは、枚挙に暇がないので、やっぱりそれだけの刺激があると思うのよ、特に笑い飯のように色々考えるであろう人たちにとって、情報番組しかない大阪のテレビで、ロケのレポートや約束事が決まった司会進行しか若手芸人に仕事がない状況と、毎回決まったお客さんしかいない小さい劇場というのは、やっぱり笑い飯にとって大阪は狭すぎると思う、情熱の漫才を取り戻すためにも、さっさと東京行っちゃえよ。
そりゃ僕も例えば笑い飯に「週一ド深夜放送の30分番組だけど、笑い飯に好きな事させてやる」という局のプロデユーサーがいて、「笑い飯の二人がやりたいけども、現時点での二人の力では足りない部分は俺たちが全力で補ってやる」というディレクターや作家がいる状況なら、20年前の大阪のように、大阪の番組スタッフが、それぞれダウンタウン、トミーズ、圭・修山田雅人森脇健児、そして劇団☆新感線劇団そとばこまちのメンバーに、好きな事をさせてあげる環境を作ってあげて、競い合わせる事で、自分たちの夢や野心も託していた時代なら、僕もそんなこと言わないけど、いま大阪に若手芸人に自分たちの夢や野心を託して、環境を整えてやるなんて状況は皆無に近いわけなんだから、東京の方が笑い飯に賭けてやろうという人に出会える可能性が広がると思うし、もっと単純なことをいうと、笑い飯にはお笑い界内外の一流と言われる人たちにもっと日常的に沢山接する環境に身を置かせてやりたい。その為にはやっぱり東京行くべきだと思う。
笑い飯にいま欠けているのは、情熱とその情熱を分かりやすく見せてくれるタイプのネタだと思います。

笑い飯も千鳥も、考えすぎて深みにはまった、という印象を受けました。
M-1グランプリ2007【決勝戦】 : おわライター疾走

そして過剰に深読みしてくれる人が審査員に何人もいるから、この二組は準決勝は毎年楽勝で通ってしまうんですよね、分かりにくいレベルの高い漫才より、分かりやすいことを正しく伝える漫才の方が上という評価を、もうここ七回のM-1グランプリの決勝審査員は下してしまっているし、何ていうか準決勝の審査員は「小手先」を嫌っているけど、笑い飯や千鳥に関しては準決勝審査員や準決勝を見に来るような、マニアックなお笑いファンが好むような「小手先っぽくない」ネタを、小手先でやっているように見えて仕方ないです。
でも僕は千鳥は小手先だと思う、ファンの人には悪いけど彼らの漫才には昔から、特別なものは何にも感じないんだよね、面白いネタはもちろんあるし、2005年の敗者復活戦とかは「千鳥しかいないな」と思ったのは事実ですが。

導入部の「象の密漁を止める」っていう下りは
意味の無いスケールの大きさで
結構期待してたんですけどねぇ。
そのスケールの大きさで最後まで突っ切って欲しかった。
(引用者により、略)
で、賛否両論のあるオチですけど
広げた風呂敷をあえて畳まないのなら
いっそ、広げるだけ広げ倒して
「こんなん畳まれへんで」と思わせるぐらい
やってくれたらいいと思うんですが
どうも広げ方が中途半端と言うか
ひょっとしたら畳めるかも?と思わせてしまった所が
今回の敗因じゃないかと。
M-1グランプリ2007レビュー : 一汁一菜絵日記帳

「中世ヨーロッパごっこ」「幕末ごっこ」「象の密漁を止める」と、設定からしてデカイ風呂敷を広げてくるのが、千鳥の持ち味と思われているし、彼らを評価している人はそこを魅力の一端として感じていると思うんですよ、でも彼らはその風呂敷を畳めていないというより、広げた風呂敷は畳むなりしないといけないという、根本的なことを分かっていないというか、そもそも風呂敷を広げるという事の意味を理解していないんじゃないかと思うんですよ。
広げた風呂敷というのは「綺麗に畳む」「広げた勢いで破り捨てる」「(お客さんに分からないように)畳める大きさの風呂敷にいつの間にかすり替える」「あえて畳まない」の四つの対処法が主にあるけど、今回の千鳥は「途中でどんどん風呂敷が小さくなっていって、その過程がお客さんに丸見え」という最初に大きな風呂敷を広げる意味がない展開に落ちていったと思います。しかもその小さくなった風呂敷から畳まなかったんだから、明らかに決勝レベルのネタではなかったと思うし、仮に千鳥は「風呂敷を畳まないのがスタイル」ということは百歩譲って認めても、それなら大きな風呂敷をきちんと広げっぱなしにしとくべきでしょう。最終的にスーパーのレジ袋で充分ぐらいのものを出されて、それすらきちんと包まなかったんだから、これは客の受けではなく、構成やネタの作りを冷静にみて作家が審査しているというのなら、なぜこれを落とさないのか理解に苦しみます。松ちゃんに「天丼ばかりで、ショートコントのよう」と指摘されるまでもないよ。
まあでもデカイ風呂敷をきちんと畳めなんて事は言わないですよ、だってそんなこと実際に出来ている漫才、映画、漫画、小説どれだけあるか? という話ですよ、漫画でもあれだけ作品数が世の中に出ていながら『デビルマン』だけしかないと言われているし、漫才に関しても僕から見たらチュートリアルの「チリンチリン」と笑い飯の「奈良県立民俗博物館」ぐらいしかないんだから、それを千鳥に求めるような酷な真似はする気もおきないけど、なんか最初に開いたように見えてる風呂敷に、準決勝の審査員は騙されすぎてない? なんか完結待たずに『ドラゴンヘッド』に手塚治虫文化賞をあげてしまって大失敗に近いものを、千鳥の毎度の決勝進出には感じるよ。
なんか僕は千鳥の本質って、そういう先鋭的、前衛的な笑いじゃないのでは? と思う事が多いんですよね、僕は千鳥は「大悟の島ネタ」が、自己紹介ネタとして相応しいとかいうレベルではなく、純粋に一番面白い良いネタだと思うんですよ、漫才以外でも、いま千鳥は情報番組のレポーターロケ芸人として、凄い引っ張りだこになっているぐらい仕事しているし、その仕事内容にも定評があるようなのですが、笑い飯とは逆にそういう小さい仕事をきちんと積み重ねていって、良い仕事をしていると評価されるというのが、本来の千鳥の本質じゃないかと思うんですよ、前衛的とか先進的という評価が、逆に僕は千鳥を苦しめているような気がしてならない。
本来は地味な職人として、なんか男前じゃないオーケイみたいな立ち位置ぐらいで、なかなか評価はされないけど小さい所で良い仕事を積み重ねていって、大きな稼ぎもしっかりあるし、芸人としては知らない人はいないし、最大公約数の笑いを職人的に取っていくいぶし銀で、そろそろベテランという声もかかりかける頃に、メッセンジャーティーアップみたいな形で後々に確かな評価を得るというのが、千鳥の本質じゃないかという思いが最近凄くしているんですよね。

事前番組みたいなのをやってたんですが
そこで千鳥がインタビューに答えてたんですが
やれM-1の決勝に残らないと営業の仕事が減る」とか
M-1に残るためにロケの仕事を入れた」とか
M-1に向けて全国ツアーとかやったトータルに比べると
なんか言うてる事が小さいんですよ。
(注・強調は引用者による者です)
この辺の彼らの保守的な部分が
前衛的な事をやってるのに
上手くハマらない原因じゃないんでしょうかねぇ。
M-1グランプリ2007レビュー : 一汁一菜絵日記帳

僕は大阪ローカルの情報番組のロケ芸人というのが、千鳥の現在持っているスケールだというのを、このインタビューは露骨に出てしまったと思っていて、決勝のネタや演技がどうではなく、本質的に芸人として全国の決勝レベルではないということを、露わにしてしまったと思います。でもそれ自体は別に悪くないんですよね、そういうのを積み重ねていって良い仕事をしていって、評価されるという道はあるし、横山たかし・ひろし大木こだま・ひびきのように千鳥はなる可能性は僕はあると思っています。
ただやっぱりこれはネタ半分だったとしても「優勝賞金が破格の1000万円という漫才コンクール」「優勝すれば今後のスターの座はある程度約束されている」みたいな舞台に際して、今回が四回目の決勝という身分で出てくる人の事前コメントとしては、あまりにもセコイ、人間の小ささが出てしまっているし、「決勝に残った事で満足」ということが営業とかロケという言葉ににじみ出すぎている。
これでは「優勝出来なかったら引退」ぐらいの気持ちで挑んでいたと言われている、優勝した年のますだおかだフットボールアワーや「M-1で結果が出なかったから」という理由で、しばらくテレビや劇場では漫才ではなくコントばかりやっていたという、一年目のフットボールアワーや二年目以降のハリガネロックアメリカザリガニと比べても、意気込みの差で完敗しているじゃないですか、表向きのコメントかも知れないけど「営業の仕事のために決勝に残りたい」と言うてる人が決勝に残っている裏で、ビッキーズチャイルドマシーンが決勝に残れなかったと解散したりしているのは、切ない思いでいっぱいになってしまうし、優勝候補として決勝に審査員としてあげて、その決勝で千鳥が全く評価されなかった事に、決勝の審査員に対して恨み節をかわら長介はブログで書いているけど、千鳥本人が「決勝に残って、営業の仕事を確保したい」というレベルのモチベーションで挑んでいた事を、見抜けていなかった自分たちの節穴をもっと感じるべきではないでしょうか? 本人達が関西ローカルのレポーター芸人という所に自分の位置をおいてしまっている以上、どんなに才能やポテンシャルがあっても、自分が引いてしまったラインを越える事は出来ないですよ。
もし千鳥はそれを越える存在だというのなら、どうしてかわら長介倉本美津留は、M-1以外でそういう場を与えて、本人達の意識が高まる環境を常日頃から整えてやらないのか? 僕は千鳥を評価するという立場で見ても、評価しないという立場で見ても、準決勝審査員、特にこの二人の千鳥に対する評価と姿勢は、無責任な評価を元に決勝に上げていると言わざるを得ないです。そんなに評価しているのなら、自分たちの全権力を使ってでも、「千鳥の4時ですよ〜だ」でもやってやれよ。千鳥がM-1で本来は優勝するポテンシャルはあるけど、それが活かされていないというのなら、そういう所に意識と立場を持って行ってあげるのが作家の仕事じゃないの? 悪いけど大阪ではロケ芸人に収まっている千鳥の二人が、優勝までモチベーションを現実的に上げられていないとしても、それは仕方ないことだし、その辺の本人達の意識やモチベーションというのは、決勝の審査員のような大スターな人たちからしたら、準決勝の大阪のベテラン作家達以上に見破ってしまえるということだと思うよ、そういうのを抜きにしてかわら長介が、決勝の審査員に対して恨み節を語っているのは、はっきりいって見苦しいとしか言いようがない。

僕の目には、あの9組の中に漫才の現状にいらいらし、現状を否定し、そして意図的な漫才を見せつけたコンビは確かにいたのに・・・・・
66〜2007M−1準決勝③?」 : かわら長介 たくらだ堂  

これが千鳥の事だというのは、「優勝はどのコンビかみんなでギャンブルします!僕は□□!漢字二文字の・・・・」ということから明らかだし、決勝で感想が変わっていたとしても、サンドウィッチマントータルテンボスキングコング以外の6組の中にそういう存在を感じたというのは、千鳥じゃなかったとしてら笑い飯POISON GIRL BANDだと思うのですが、おそらく決勝の見ても千鳥に対する高評価は変わらないままだったんでしょう。
でも笑い飯や千鳥は僕の目には、現状に満足しているか達観して諦めているかは分からないけど、否定するパワーというのは全く感じないし、それが笑い飯に対しては「熱がなかった」という評価になるし、ラサールさんに「台本を読んでるだけ」と言われる漫才に、僕は現状を否定するだけのものを見いだす理由はないと思う。
僕は準決勝で落としたサンドウィッチマンが優勝したという一点だけを理由に、準決勝の審査員を批判するつもりはもちろんないし、それでブログを荒らしに行く連中はどうかと思います。でもかわらさん、貴方が示している審査基準と笑い飯と千鳥を推すというのは、やはり矛盾していませんか? NON STYLE、プラスマイナス、サンドウィッチマン、磁石、流れ星の評価は本当にそれで良いんですか? と思わずにいられないです。本当に現状を否定して、意図的な漫才を見せている人を、貴方は落としていないですか? M-1でも、ABCでも? むしろかわら長介の審査結果というものの方が、大阪のお笑い界にとって「否定すべき旧態的な現状」であり、NON STYLEやプラスマイナス、なすなかにしのやってる事の方が、そういった現状を否定している漫才を見せつけてくれているのではないでしょうか?

それは自分たちが気持ちいいことをやっているだけのように見える。それって、結構観客不在というか、ファン無視ってことでは?勿論、誰の為に芸人をやっているかと言えば自分の為だろうが、人間生きることはそう単純でも、自由でも無い。

というのは、アンタの好きな笑い飯や千鳥にも言える事なのでは?と。
「65〜2007M−1準決勝?」:かわら長介のたくらだ堂 : 一汁一菜絵日記帳

だからやっぱり準決勝の審査員はかわらさん筆頭に深読みをして、笑い飯や千鳥を評価していると思うし、それで笑い飯や千鳥が変に深みにはまって、世間や決勝の審査員に評価されていないとしたら、準決勝の責任は大きいと思う。というかこういう「それは千鳥やダイアンにも当てはまらない?」と思う落ちた人への論評の内容は多いです。「ワンテーマに対して並列的なボケが続いて、それだけで4分は浅い」という指摘が度々出るけど、それは今年の笑い飯、千鳥、ダイアンにも言える事何じゃないの?

彼らのネタは意外に理屈っぽいんですね。少し紙に書いた台本臭いところがいつもある。
そこに小ネタを挟み込んだり、顔で笑わしたりとかして、ジャブを増やし手数を増やしていくべきなんだけど、いつも「最初に書かれたまま」なんですね。
するとこじんまりしちゃうんです。
それは違うよ西野くん : ラサール石井の鉄板少年らさある

結局、現役の芸人の審査員からしたら、その辺を深読みしないで出てきたものを、きちんと評価する人から見たら、こういう論評に落ち着くんだと思うんですよ、ただ実際にそういう手数を出してくると、準決勝の審査員には「小手先」と言われてしまうわけですが、僕は千鳥や笑い飯は変に準決勝の審査員やっているような作家や、関西のマニアックなお笑いファンに、「深読みしてもらえるような漫才」というのを、小手先で覚えてやってしまっているような気がしてならないです。
なんかこれはM-1とは全く関係ない「KY」に対する話題へのエントリーなんですが、これを読んだときに僕は笑い飯と千鳥の事を、思い出してしまったんですよ。

でも「おれは唯我独尊!空気なんて読まないぜ!」と語っておきながら実は空気を読んだりするような人は、それがバレたときに非常にかっこわるい気もする。かっこわるくてもいいけど。
KY : strange

これって、まんま本当は仲良しで優等生な笑い飯、保守的で安全安定志向の千鳥のことだよなあと思った。そういう上辺で演じている部分にM-1準決勝の審査員と大竹まことは騙されている気がしてならないし、笑い飯や千鳥は自分たちの本質で勝負させてあげるべきのように、改めて思う次第です。
最後に千鳥に関しては、物凄い細かい所を一点だけ。

企業名をゴールデンに出して、スポンサー的に大丈夫なのか?
いつも決勝しか観ない人間が語る、M-1 2007 : 「やってみるさ」

その後「和民のCM」がねぇ…
そんなん頑張って売れたら
CMの話来る範疇じゃないですか。
M-1グランプリ2007レビュー : 一汁一菜絵日記帳

結局この辺で見ている人が引っかかってしまうというのが、「メルボルンはヨーロッパじゃない」とナンチャンが引っかかった頃から、千鳥が進歩していない所なんですよね、逆にこういう所をお笑いマニアや審査員している作家は許してあげ過ぎだと思う、今回色々とM-1の感想見ていて、納得出来る感想の多くが本来はサッカーや競馬、音楽のブログという人がやたら多かったんだけど、世間の声というのはマニアの声と同じぐらい大事なものだと思うし、決勝の一時代を築いたプロ芸人達が、マニアよりも世間の声に近い意見を持っているというのは、色々と納得させられるものがありました。うちの父親の千鳥に対する「作家が書いた漫才した方が良い」という感想も、千鳥のネタ作りの甘さだけでなく、彼らの本質的な保守性を見抜いた意見のように思えました。

  • 追記 12/30

密漁をとめたり、ワタミ行ったりする所のフレーズがまったくもってノーマルなのがもったいないですね。あそこは一つ勝負できるところだと思うんですがね。
M-1グランプリ2007 : 団地妻の狂い咲き健康法/アバンギャルド・カス女

この辺も結局、ラサールさんの指摘している所なんですよね、狙っている大ボケ以外の所の作り込みが弱いのか、必要性がないと思っているのか。