第十六回『テレビのツボ』開戦前夜

当時記憶していること、「嘉門達夫のラジオで葉書職人のネタが嘉門達夫にパクられるのは、多くの人に聞かれるんだから良いけど、ぜんじろうにパクられても披露される機会がないから嫌だ」という葉書がWコウジヤンタンで読まれたりとか、東野幸治と並んでぜんじろうさんが吉本若手の“ラジオタレント”の代名詞とされていたこと、アミューズから移籍話があったことは、当時既に一リスナーでしかなかった僕も知ってたから、多分嘉門さんかぜんじろうさん本人が公の場でそういう話があったことを言ってたんでしょうね、その後のぜんじろうさんの活動とかアミューズの急成長を考えると、この移籍話がぜんじろうさんが売れたことで無くなったのは良いことだったのか悪いことだったのか、今となっては想像することも難しいことですが。
あとこのインタビューではぜんじろうが「テレビのツボ」に選ばれたのは『ヒマだったから』と言われていますが、確か当時は収録スタジオとなっていた「うめだ花月シアター(当時)」の一番近くに住んでいたのがぜんじろうだったと言われていたなあというのと、「テレビのツボ」という番組がぜんじろう司会でやるというのは、結構ラジオなどで告知もされていたし、だから放送開始の一日前に言われて本人が始めて知ったというのは、悪いけど相当アンテナがこの時期は伸びてなかったんだなあと思いますね。
ただこの頃も『うめだ花月に近いから』とか『ヒマだったから』と言ってましたけど、サブカル・オタク色が当時の常識としてはとしては相当に強かった番組の内容とか、ゲリラ的な広報活動やイベントの数々は、ぜんじろうさんのそれまでの活動とかに合致していたし、第一このクラスの芸人さん、タレントさんでこういう司会が出来る人って、他に関西の若手でいたのかというと僕はいなかったと思いますし、ぜんじろうさんの起用はかなり戦略的に考えられた結果だったと思っていますけどね。
大体、毎日放送は「テレビのツボ」と同時に「ヤングタウン日曜日」において、ヤンタンの花形だった公開放送を復活させてそのパーソナリティをぜんじろうに任せているんですよね、だからぜんじろうさんにはこうやって伝えられて、いまもそう記憶しているけど、毎日放送吉本興業、そして周辺の作家さんなどの間に、本人の知らないところで「ぜんじろうプロジェクト」というのが働いていたと思うんですけどね。
いやでも今回の「ぜんじろう旅の途中」で一番ビックリしたのは、当時のハガキ職人だった「笑福亭とっさん」が、ルート33の堂土さんというのが、一番のサプライズですよ、自分としては「竜王は生きていた」が、いま「トリビアの泉」で構成作家やってるというのと同じぐらいの衝撃でした。
(日刊耳カキ|ぜんじろう旅の途中)