スポーツを教育の奴隷から解放しよう

日本の指導者を悩ます「従順」「妄信」 - 日本経済新聞

「スポーツと教育行政」という一連の話をしている時に、いつか入れたいなと思っていたけど、書くきっかけがなかった話をしたいと思います。もう10年以上前、松岡修造がまだギリギリ現役だった頃に、さんまさんの番組に出演した際に、さんま工場長が「自分の娘にテニスをさせたい」という話をしだした時に、もう一人いた女子のプロテニスプレイヤーと二人で、凄い反対したんですよ。
その反対の理由が、テニスは相手の嫌がるところに玉を送る、相手のミスを付くスポーツだから、テニスなんかやらせたら、性格悪い奴じゃないと、強くなれないんです。自分の娘を率先して性格悪くするようなことしてはいけない。という凄い反対理由を語っていました。
これって松岡修造は正直者だし、良い奴なんだろうなあと思って、いま若年層の指導が主な生業になってからは、こんなことは欠片も言わなくなったけれども、それも仕方ないことかなと思っている。
でも松岡修造の言うように、対戦スポーツというのは、相手の嫌がることをする、打ち負かしてやりたいという思う気持ちとか、特に国際的な舞台で戦うという時は、誰よりも勝ち気で強気なメンタルを育てなくてはいけないんだから、日本の教育現場的な価値観の“いいこ”が通用するはずがない。コーチに対して「お前は本当に自分をレベルアップさせられるのか?」という上から目線で接すことが出来る子供の方が、将来世界で戦える選手に成長するというのは、感覚的に理解できることです。
そして引退間近の松岡修造がそうだったように、プレイヤーとして現役世代の人や、プロとして戦っているコーチは、そちらのほうが本来のスポーツ的なものだと分かっているけれど、いざ引退して育成に入ったり、講演する場所のほとんどは、日本の学校や教育行政の旗の下で、人もお金も動いてるんだから、「一流プレイヤーになりたかったら、学校の先生や親のいうことを、疑わずに信じてはダメです」なんてことは、そりゃ口が裂けても言えないというか、言ったら最後、もう二度とそういう場所には、立つことが出来ないんだから、そんな指導は当然出来ないんですよね。
日本の現在のスポーツ行政は、教育行政の下に組織やお金があるだけでなく、スポーツそのものが、日本的な教育や社会の犠牲になっている。本来スポーツ的なものでないことを、スポーツに乗せて教育する役割が押し付けられている。
やはり日本におけるスポーツ行政と、教育行政の分離は、急務のように思うのです。体罰の問題とか、専門的なトレーニング理論を持たないコーチの存在とか、この辺のことも一緒に解決するためにも考えていきたい。

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