『アメトーーク』2010年3月4日放送分「大阪だより」

「大阪だより」と言う名前での『アメトーーク』版の「よしもと楽屋ニュース」です。というか放送局も、曜日も時間帯も、オリジナルの「八方の吉本楽屋ニュース」と全く同じなんで、どうせやるのなら月亭八方師匠を呼べば良かったのに。果てしなく続く関西ローカルの話題、関西ローカルの番組のノリで、まあ二年に一回ぐらいのペースでやるのなら楽しいけど、どうせこの番組の所だから、ワンクールに一回ぐらいの割合で、やってしまうんじゃないかなという気持ちになってしまう。あとライブだと舞台上の人たちだけで、物凄い楽しそうに盛り上がっていると、巧くいけば一体感に見ている方も巻き込まれて楽しくなるけど、テレビだとあるタイミングで、凄く入れなくなることがあります。
番組の企画としてはギャロップ毛利を推すのは、まだ無茶だろうということ。あと西川きよし師匠の話の後に、毛利再登場しても弱いよ。きよし師匠の話したら、もうそこで終わった方が良かった。しかし今回の出演者の中だと、東野幸治サバンナ高橋の話術がずば抜けすぎている。伊達に東京で売れていないというのが、大阪のローカルタレントと並ぶと際立って分かる。東野、高橋の二人と、他の大阪芸人の違いは色々あるけれど、決定的な所を一つあげると、この二人と比べると他の人たちは、みんなオチまで話が長すぎる。
ギャロップ毛利について、「いらん情報をエピソードトークにいれる」という話がされていたけど、それって大阪の芸人みんなそうじゃない? あの端的な例を出すけども、大阪の芸人って東京で売れている人と比べると分かるけど、やたら固有名詞を入れたがるんですよね。居酒屋と言えばいいのに「和民」って言ったり、ジュースといえばいいのを「スプライト」って言ったりとか、やたらとトークでもネタでも、固有名詞を入れて話したがるんですが、その固有名詞に何の意味もないんですよね。それこそ「和民」どころか、定食屋でも通じるような居酒屋のエピソードトークを、わざわざ店名を出して言いたがる。それが別に大手チェーンとかでなくてもそうだか、「ホテルアイビスで、この前〜、いやホテルアイビスというのは……」みたいな感じで、どんどんトークが長くなる傾向がある。だから『アメトーーク』の「○○芸人」というのは、ある意味そういう固有名詞を入れたがる、大阪芸人の救済的な意味合いの強い企画だと思いますが、まあでも明石家さんまの前でそういう話の進め方すると、怒られるので気を付けましょう。
東野幸治サバンナ高橋のエピソードトーク聞いていると、同じ話を他の大阪芸人が話した時と比べると、一つのエピソードでも三つも四つもはしょっている部分がある。その話のネタの全貌が把握できる、最小限の構成で話しているのが、今回凄く良く分かりました。大阪の芸人って、トークもネタも編集が出来ないんだな、というのが改めて浮き彫りになってしまいました。編集できないというのは、構成力がないというのもあるけど、自分の笑いや話について、客観性がないということなんですよね、だから他人がこの話を聞く時に、どこが必要でどこが不要かというのが理解できない。友近もそうだけど、小薮にしても、芸人のわがままを許容する大阪の客に馴らされすぎている。そんなプチ友近とプチ小薮が、いま大量に大阪にいるし(苦笑)。
小薮はとにかく話がオチまで長い、同じ話を東野なら半分で終わらせている。というのが多すぎた。てつじはトークに余計なキャラ乗せすぎていて、話が突散らかっている。こいちゃんもこいちゃんでどこに出しても良いキャラじゃないし。千鳥と天竺鼠はいたの? というか必要性が全く無かった。いやギャロップ毛利の話をさせたいのなら、林をスタジオに呼べば良かったし、もっと言うとそこは千鳥でも、天竺鼠でもなく、中山功太だろう、と思うのですよ。それ以前にノブの話はグダグダ過ぎだ。
あんまり二回目はやらない方が良いとは思うけど、もし二回目やるのならパネラーは次のメンバーを提案したい。
まず東野幸治サバンナ高橋の残留は確定、というかこの二人が揃わないのならやってはいけない。そして他はメンバーを一新して、桂きん枝、すっちー、中山功太ヤナギブソン、安田団長というメンバーを推したい。きん枝師匠は若手と交流がないようなベテランや落語家の面白い話の供給役、いや別にここは八方師匠でも良いんだけど、そこまですると本当に「楽屋ニュース」というタイトルにするべきですしね。すっちーは新喜劇担当、中山功太は若手担当、ヤナギブソンはやや中堅よりの若手担当、別にすっちーとヤナギブソンランディーズに変更でも構わないぐらいです。そして「吉本楽屋ニュース」と言わずに「大阪だより」というのなら、松竹の話もしようよということで、安田団長による「松竹楽屋ニュース」も是非やるべきでしょう。
しかしこの番組の小薮を見て思ったのは、『すべらない話』という番組のシステムは、そういう構成できない話者の話を、最後まで聞いてもらうためのシステムなんだなと。最後に面白いことが必ず待っていると保証しているから、オチまで長かったり、オチまでの道のりの過不足や不安定があっても、聞いている人に耳を傾けてもらうためのシステム。だからトークは巧くないけど、面白い話を持っている人が輝くことの出来る場所、という風に考えた方が良いのかも知れない。そうトークの巧い下手と、面白い話を持っているかどうかは、また別の話なんですよね。そりゃ明石家さんまは、あの番組のこと嫌いなはずだわ(笑)。
でもこういう番組が『すべらない話』に限らず増えていますよね、芸人が万人向けの構成が見せ方が出来ない、出来ても自分の拘りを優先してしないから、番組の方がどんどんそういう芸人でも活躍できるように、番組のフォーマットのほうを、『すべらない話』や『アメトーーク』のように合わせていく。これって甘やかしているという見方も出来るけど、単純に番組の演出家とかは、芸人のことを実は信用していない結果生まれたものじゃないか? という思いも感じてしまいました。むしろ演出家が万人に受けるものと信じて、一緒に作品を作っていこうとする番組の方が、よっぽど芸人のことを信用している番組なんじゃないだろうか?

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