M-1グランプリ感想の感想その8〜「ハックルベリーに会いに行く」編

普段から巡回している先ではないんですが、オッと思うところや反論してみたいところもあったので、エントリーさせて頂きます。

「M-1グランプリ2008」を評価してみる - ハックルベリーに会いに行く

ディテールが弱い。シナリオの詰めが甘い。細部まで詰め切れていない。

僕は今回のダイアンの漫才は、かなり高く評価しているんですが、ディテールの弱さというのは、言われてみれば確かにそうなんですよね、何というかダイアンってコンビは「西澤が知らないことを、津田が説明する」という漫才をする人達、というのを知っていないと面白くなるのに、時間がかかるところとかがあるのは、ネタ中に説明不足なところが多い。

発想とキャラクターの生かし方は良いと思った。お互いのキャラクターをよく見極め、展開させていたのは良いと思うが、いかんせん詰めが甘い。

そう発想とキャラクターが一致したというのが、ダイアンが今回に評価を上げた理由だと思う、大阪の芸人は「ディテールを詰められない」というのと「キャラクターを漫才に生かせない」というのが、大阪の若手に蔓延している大きな病気で、またそういう漫才を大阪のお笑いファンや関係者が、「あえてそういうことをやっているのは素晴らしい」というような評価をしがちだから、

笑い飯の漫才はM-1で数度見たことがあるだけだ。数年前のブラックマヨネーズに負けた時の、マリリン・モンローのネタは最高に面白かったと記憶している。
「いっつも替わってくれる」というのが面白かった。「やらせろや」という視点も。こういうメタな視点を一個持つだけで、漫才は新しく見える。

ただこれについては、少し玄人目線が強いかなあと思った。笑い飯を何度も見ていない状態で、マリリン・モンローのネタを楽しめるところとか、笑い飯のメタな部分を、素早く理解して面白がれるところとか、笑い飯M-1で数度しか見たこと無い人としては、視点がやや鋭すぎるように思う。

M-1に出演している漫才師」という「物語の作り方」が大切だなと思った。

歴代の優勝者とか、話題になったファイナリストには、いずれもそういうものを味方にする強さがありましたよね、というかM-1グランプリの前までは、ほぼ同じような評価だった、ますだおかだアメリカザリガニの明暗が、M-1ではっきりと別れてしまったのは、この部分が大きかったと思っています。

漫才は台本ありきだとおそらく信じているツッコミの方と、考える力がないから自分は身体芸に命を賭けてますというボケの方。しかしそれが結局頭でっかちになっている。
この二人は、プライドが邪魔をするという感じだった

これはキングコングに関するコメントですが、もっと低い次元で、こういうプライドで頭でっかちになっている人達が、敗者復活戦に凄い多かったように思えたし、三回戦で敗退した名前のあるところは、ほぼ全てにこれが言えたのではないかと思う。

ぼくが審査員だったら誰に投票するかと考えてみた。予選からの流れを見ると、ここはNON STYLEに入れざるを得ないと思った。好みはオードリーだけど、優勝はNON STYLEじゃないかな。

好みはオードリー、でも優勝はNON STYLEで納得とか、審査員としてあの場にいたら、自分もNON STYLEだったかも、という意見は多いような気がします。「ゾーンに入っている」という表現は、決勝会場にいた人達の話や、自分の敗者復活戦の会場で見た感覚と、一致している表現のように思います。

こうして見ると、ぼくは正気と狂気の境界線に立つような漫才が好きなんだな。一見常識的なんだけど、そこはかとなく狂気を感じさせるのが良い。

しかし結果そのものは妥当だったように思う。ぼくがNON STYLEを好きでないのは、彼らには狂気がないからだ。しかし彼らの技術は素晴らしかった。

僕はこの二つについてどうしても語りたかった、「NON STYLEには狂気がない」という部分には、mcatmさも賛同されているけど、僕はその部分を特出して漫才を評価することを恐れるのです。これは最初の僕の感想のテーマである、お笑いは「大衆芸能なのか?」それとも「芸術作品なのか?」という所にもダイレクトに繋がっていくのですが、僕にとって漫才というのは、エブリデイの娯楽なのです。漫才というのは劇場や寄席小屋で毎日のように演じられるものだし、それはテレビのバラエティを戦場にする場合も同じです。基本的に漫才とかテレビのお笑いというのは、エブリデイで提供する娯楽であり、享受するべき娯楽だから、狂気という部分はどうしても評価の優先順位として高くならない。
むしろ毎日露出することで、一番真っ先に失われてしまう部分というのは、狂気という部分に他ならないんですよね、それは南海キャンディーズや千鳥という、固有名詞を出すまでもないことでしょうし、POISON GIRL BANDの最高順位が、最初に決勝に行った2004年だったこと事からも分かる。
僕はオードリーの漫才を高く評価しています。今年のM-1でも、最終決戦の結果がNON STYLEに転ぶ可能性は、「7:3」ぐらいに見ていました。ただ僕はオードリーの漫才に狂気は見出さなかった、僕は「春日というシステム」の漫才を、若林が作りあげたことを高く評価するし、それに完全に応えた春日に感動したから、やはり技術的な面と台本的な面が大きいし、その上での狂気という部分は感じました。
M-1グランプリは年に一度のフェスです。だからそこで芸人の狂気を浴びたいというのは分かるんですよ、ただ芸人の戦いというのは、M-1グランプリへの道、というのは四年に一回のオリンピックやワールドカップではなく、年間のリーグ戦の最終節に近いものなのです。だからこそ夏から予選をやっているし、明らかにM-1に向けた賞レース路線が整備されてきているし、事務所のバトルライブも出来上がってきている。
日本シリーズではなく、135戦のリーグ戦の終盤の戦いなんですよね、だから気合いの入り時ではあるんだけど、あくまでも野球や相撲のようなエヴリデイの娯楽である漫才は、そういう見方も捨てきれないし、そういうエブリデイの戦場で戦って、勝ち残った人達が審査員しているんだから、一瞬の狂気よりも、毎日の戦いに耐えられる漫才かという見方は、当然のようにされていると思う。
基本的に僕にとっては、漫才というのは、毎日見るものだし、毎日演るものだから、どうしても「漫才師の狂気」というのは、必要な要素だと思うけれど、優先順位が低くなってしまう。それを追求していったら、いまの芸人はラーメンズみたいな活動に向かうしかないですからね、僕はNON STYLEもナイツもオードリーも、エブリデイで楽しみたい。笑い飯は……こうなったらラーメンズ路線しかないと思うんですけどね、千鳥にしてもそうですが、ただいまから行くのは難しいか、いまの笑い飯や千鳥のようになる前に、ジャルジャルは考えるところでしょう。
もう一つこの辺の話を膨らませると、NON STYLEの今回のネタについて、「俺、このネタ、来年の二月ぐらいには細部忘れちゃってる」というのは、他にも「もう早速覚えていない」と言ってる人もいますが、それは何の問題もないことだと思うんですよね、だって漫才って毎日やらないといけないんだから、見た瞬間は物凄い笑えるけれど、見終わったらすぐに忘れるというのは、同じネタをまた見ても新鮮に笑えるということなんですから、漫才師としては一番おいしいところでしょう。
実際にNON STYLEは、優勝してから色んな番組に出されて、「優勝した漫才をもう一度やって貰いましょう」という流れになっているけれど、それでも通用するところが、NON STYLEの凄い所なんですよね、実際に過去の優勝者でも、アンタッチャブルブラックマヨネーズサンドウィッチマンは、M-1で優勝した時の漫才を、その後もお笑い番組で普通にいまでも演っていますが、問題なく演れていますからね。
というか実は僕は、今回のM-1の中ではオードリーのネタが、オーバーでも何でもなく一番内容を覚えていない。オードリーのネタで覚えている部分は、「鬼瓦」とか、僕にとってノイズに感じた部分だけで、オードリーは若林の提供してきた「春日というシステム」に驚愕したし、それを演じきった春日の豪腕に惚れたから、ネタの内容と言うことの細部は、そんなに記憶していないんですよね、だから僕はオードリーのネタも、何度同じネタを見ても新鮮に笑うことが出来ている。
あと狂気云々に関しては、「BSマンガ夜話」の『BECK』の回で、狂気だけがアーティストの全てじゃないという話があるから、それは是非とも見て貰いたいです。

M-1グランプリの審査員がやらせて見えてしまう理由 - ハックルベリーに会いに行く

M-1グランプリの審査がやらせに見えてしまう人は多いらしい。
それは、審査員が横目で他の審査員を見ている映像が何度も映し出されたり、点数が示し合わせたように同じだったり、島田紳助の「審査は好き嫌いにならざるを得ない」という発言を初めてとして、全ての発言が弁解がましかったり、思わせ振りだったり。
しかしそれは仕方のないことなのだ。彼らは空気を読んでいるのである。あそこの審査員席に座っているのは、今、日本で一番空気を読むことに長けている7人だと言っても過言ではない。その7人が、全身全霊をかけて空気を読み合っているのだ。会場の空気を読み、芸人の空気を読み、さらにはテレビの前の視聴者の空気を読んでいる。
M-1グランプリの審査員がやらせて見えてしまう理由 - ハックルベリーに会いに行く

あーこれは素晴らしいわと、思いました。この後に続いている文章も含めて、是非とも全文をご覧になってもらいたいです。
そういう意味では一年目の松本人志、2002年の立川談志、2005年のリーダーとか、審査員慣れしていない人達は、微妙に空気読めてなかったですよね(笑)。あと2003年の島田紳助も、今年のカウス師匠のように「自分だけ笑い飯に入れて2位を作ってあげよう」と思って投票して、パッと横を見たら松ちゃんとナンチャンも、笑い飯に投票していて焦ったというのも、あれも空気読めていなかったということですよね(笑)。
実際にオードリーに対して「のりお・よしおに似ている」というのは、オードリーの笑いが理解できない人達に、オードリーの見方の補助線として、一番点数が低かった紳助が役割として提示したということは言えると思う。
なんかね芸人さんの空気の読み合いとか、芸人さん同士がやっている、貶め合いみたいな弄り方というのが、芸人さん達が芸人という括りだけで、物凄い信頼関係が成立している、ということがあまりにもお笑いファンとか、視聴者に伝わっていないんですよね、「アメトーーク」とか「やりすぎコージー」などで、システム論としては説明されまくっているけど、その本質というのは、あまりお客さんに伝わっていない。
上岡龍太郎島田紳助ダウンタウンが、大昔に番組で「芸人を志した人間は、どんな奴でも一蓮托生の運命共同体だよね」という話をしていたんですよ、この当時の松本人志って、一番尖っていた頃ですからね、それでもこの話には賛同していた。そういう信頼関係の上でやっている事を、お笑いファンが心底は理解できていない、まあそれに気付かないで説明不足なままで、そういうことをしている芸人側にも責任があるんですけどね。

キンコンについてはもともと苦手ですが、記者会見とかワイドスクランブルでダイアン(その場にいないポイズンまで)をバカにすることで笑いを取れると勘違いしている発言に胸糞悪くなってますます嫌いになってしまいました。
[ ワンセグ観戦] by p i t a !

例えばこういうのは、お笑いに付いてある程度リテアラシー持っているはずの人も、感じてしまうんですよね、実際にキングコングにとって、ダイアンは同期だし、POISON GIRL BANDは同じ劇場に出ている仲間なんだから、気心知れている仲間なんですよね、ダイアンやポイズンは少なくとも絶対に悪い気はしていない。このことはこの人が元々キンコンに対してアンチだったいうことを差し引いても、やっぱりお笑いファンには、お互いが芸人というだけでの信頼関係とか、その辺が理解されていないんだと思う。
もちろんその辺の理解の浸透が低いにもかかわらず、そういうノリをファンや視聴者に強要する芸人側の問題もありますよ、でもそういうのを根本で分かっていないのに、上辺のシステム論だけで分かっているフリしているお笑いファンというのも、結構多いような気がします。
だからキンコンのこういうコメントや、過去のM-1決勝での紳助や談志のコメントや点数が叩かれる要因になっているのでしょう。この辺は紳助や談志ですら、お客さんは理解してくれると思っているのか、理解してくれなくても良いと思っているのかは、分からないところではありますけどね、でもおそらく紳助や上沼恵美子は、ここまで自分たちの「NON STYLEはフリートークが面白くない」というのを、真に受けられるとは思ってなかったんじゃないかなあ?