批評とアーティストの関係性

漫棚通信ブログ版: 手塚先生吼える

確か手塚治虫ってインタビューで「日本でメジャー漫画家と言える作家は自分だけだ」って言ったんですよね、しかもその前に、そのインタビュー当時に売れっ子だった作家を実名に出して否定して(笑)、今の時代の漫画家なら間違いなく、発言の度にネットが燃えていたんだろうけど、手塚治虫の場合は「批評されるのが嫌」というより、「意にそぐわない批評に対して真っ向勝負を仕掛けている」所が凄いよなと思うし、横並びの売れっ子作家であろうが、物凄い後輩の漫画家だろうが、容赦ない滅多切りの感想の域を越えた評論をしているのは、本人が納得しているかどうかは別にして「批評とか評論の重要性」というのを分かっているか、そういうものに対するコンプレックスがありそう。
いくら漫画の神様・手塚治虫といえども、世代的に文学へのコンプレックスみたいなものはあったはずだし、そういう論壇みたいなものに対する憧憬みたいなものは、絶対に無いはずがないから、この批評家に対する苦言というのは、現代的なアーティストの感覚で「批評されたくない」というものではなくて、「もっと質の高い批評を漫画界のために出してきて欲しい」というものであったり、もっと端的に「自分が言われたからとにかく反論したい」のようにも思う所はあります。そうじゃなかったら「COM」なんて雑誌は立ち上げないでしょうし。
ただこういう作家同士の批評の応酬みたいなものは、手塚治虫は必要性を感じていたのか、論壇みたいなものへの憧れがあったのかは分かりませんが、かなり積極的ですよね、ただ問題は手塚さんがあまりにも偉すぎるんで、相手が反論できないことなんですが、だってちばてつや横山光輝はともかく、石森章太郎とか赤塚不二夫とか、どれだけ年下なんだという話でしょ、まして大友さんとかになったら親子ほど年が離れているわけで、言われた方は反論なんて出来ないのですが、まだ批評みたいなものを信じている世代の、批評家に対する文句の言い方というのは感じます。
それにしても手塚治虫のこの辺の話を見たり聞いたりして思うのは、明石家さんまに似てるよなあと思わずにはいられないんですよね、いまのファンからしたら信じられないかも知れないけど、いまでもさんまさんの後輩に対する苦言とかは厳しいと思うかも知れないけど、一時期まではあんなもんじゃなかったというか、今田さんや東野さん、ナイナイの岡村さんなんかが、「お笑い怪獣」みたいなキャラ付けをしたことで、バラエティのキャラクターとして「後輩に厳しい大御所」という出方が可能になったけど、ダウンタウンが売れ始めた頃とか、2丁目劇場のブームの頃のさんまさんのラジオって、今の基準だったらさんまさんが吉本の後輩の話をする度に、ネット掲示板やブログが大荒れになるような内容だったですよ、この時代のイメージがあるから、ダウンタウンなんかは、さんまさんに対していまだに腰が引けているというか、びびりまくっている所は強いと思う、お笑い界は体育会系で反論が出来ないですしね。
でもこの辺の事を言わずにおれないというのが、ある程度上の世代の人たち、それは芸人に限らず、アーティスト的な事をしている人たちの性みたいなもので、別にさんまさんが大御所になったから、若手に苦言を言うようになっている訳じゃないんですよね、さんまさんだけじゃなく、紳助さんにしろ、松ちゃんにしろ、昔のヤンタンのテープとか聞いてると、はっきりと若手といえる年代の頃から、他のお笑い芸人はもちろん、映画とか音楽とかに対して批評家の目線での、厳しい感想を言っている。それが内容的に的確かどうかはどうでも良くて、そういう精神を持つ事の重要性を、無自覚かも知れないけど、自分たちが批評とかで頓珍漢な事を言われたりすることへの反発はあっても、「批評そのものを良くない」とは決して思っていない。そもそも創作活動というものが、自分たちが蓄えてきたものを具現化していくものなんだから、どうしても批評性というのは出てくるものということはあるし、もちろん先に言った、映画や文学コンプレックスというものも、この世代の人たちまでにはあるんでしょうが。
例えばキングコングの西野のブログが、話題になって何度も炎上しているけど、若手時代の明石家さんま島田紳助のラジオでの発言って、西野のブログの何倍も、いまから考えたら問題発言は沢山あって、ネットがない時代にラジオで西野がああいう事を言っても問題にはならなかったろうし、逆にさんまや紳助が、今の時代の若手芸人でブログやっていたら大問題になっていたと思う(笑)。先日知り合いが「西野のブログは、明石家さんまがブログやっていると思えばいい、そりゃ叩かれるよな」と言っていたけど、本当にそう思いますね。
なんでこんな事を言い出すかというと、芸人さんや漫画家に限らずですけど、「自分が批評されるのが嫌」というのは、言われたくないというのは理解出来るじゃないですか、手塚治虫ですらムキになって反論するぐらいなんですから(笑)、それは普通の事だと思うんですけど、例えばダイノジ大谷さんのブログのこういう反応とか、あともっと極端な話として「褒められるのも嫌だ」と言っていた某漫画家とか、「批評とか評論自体が悪い」という考えってある世代より下から広がっている気はする。
でも例えば、さんまさんとか紳助さんに限らないけど、アーティストというもの自体が批評性を持って、やり合うというのも面白いし、例えばダウンタウンだって大阪で凄い若い時期から好きなことできたのも、香川登志緒とか麻生香太郎が褒めて後ろ盾になったというのもあるし、あとこういう批評家みたいな人とアーティストの接点って多くて、昔からあるような有名劇団なんかでも評論家的な人が立ち上げたのも多いし、近田春夫のようにアーティスト兼評論家みたいな人たちも多いわけで、そういうのが風潮として薄くなってるのは、寂しい事のように思うんですよね、凄いジャンルが痩せてくることにならないかと心配になる。
例えば昔のロックミュージシャンの喧嘩とかも、音楽性についてとか、批評の応酬みたいなもので起きた事で、最近の痴話喧嘩の延長線みたいな話がたまに出てくるのとは違うわけで、そういうのってある意味馴れ合いになっている、ということも言えるわけで、それはプロとしてどうなんだろう? と思う所はあります。
なんていうか、その辺のバッグには、さんまさんが嫌いな「がんばってる教」というのが、あるような気がするんですよね、他人が頑張って作ったもの、やっている事に対して、自分も言われたくないし、言いたくもないというようなのがあると思うんですけど、それはプロとしてどうなの? という風にどうしても思ってしまう。「頑張ったから認めてあげよう」というのは、アーティストでも言う人がいるし、ファンにも言う人が多いけど、僕はそれはプロに対しては侮辱でしかないと思うんですよ。
たけしさんとかさんまさんとか紳助さんとか、その辺容赦なく言っているわけだけど、あれは決してこの人たちが大御所だからじゃないんですよね、若い頃からそうこと言っていたし、そういう人たちだから、いま大御所となって生き残れている。いまの人たちが批評をしたくないというのは、結局の所、みんなで仲良しごっこしたいだけという印象もあるんですよね、傷付け合いたくないとか、競い合いたくないというのが、どこかで含まれている気がして、それはやっぱり上の世代の芸人やミュージシャンと比べたときに、いまの若手は緩いという印象に結びついてる事だと思います。
だからいまでも、共演者の映画とかドラマとかみて「つまんなかった」ってオンタイムで言える、明石家さんまは貴重な人だと思うし、それは別に明石家さんまが大御所だから、そういう事が言えるのではなく、最初から持っていたパーソナリティなんですけど、そういう大御所を自分たちとは世界が違う人たちと、関係ない世界と今の若い人たちは、思い込みすぎな気もしています。
いまのアーティストは、漫画家もミュージシャンも芸人も、ひ弱になっていると言えるのかも知れませんが、その辺を鍛えるためにも、もう少しそういった事に対して、堂々として欲しいです。そのぐらいプロのアーティストというのは、僕らが憧れを持って見ている人たちで、そこに並ぶというのは選ばれた人たちなんだから、もう少し強くあって欲しいし、ファンの側もそれを求めても良いと思うのです。芸人や漫画家の方がエライなんて、ファンはみんな分かっているんだから、いちいちそんな事は自分で言わないでほしい。

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