マニア市場だけで食えるのなら何の問題はない:昨日の風はどんなのだっけ? - 一汁一菜絵日記帳

何を持って大阪のスタンダードな漫才というか、という定義があやふやになってきている気がする。先日ファンダンゴTVを見ていたら、うめだ花月の「漫才イズム〜TRSの野望〜」という、シンクタンクりあるキッズストリークの三組の漫才ライブの放送をしていたのですが、三組とももう若手とは言えないキャリアではありますが、久しぶりにベテランではない人たちによる、正統派の上方漫才のスタンダードをたっぷり見られたのは良かったです。
シンクタンクは一時かなり見かけない事になっていたし、りあるキッズは低迷している真っ最中ですが、大阪の寄席文化を守っていく存在として、漫才をこの調子で続けていったら10年後、20年後には大物として、大阪の花月の灯を守る存在になっているでしょう。そういう意味では、いまのうめだ花月という、寄席という毛色ではない劇場がホームになっている現状では、このままなのは仕方ないけど、いずれ大きなチャンスが巡ってきそうです。
そしてこの並びにいて違和感が全くないストリークが、「マニアック」とか「あざとい」みたいな事を言われているのはやはり変ですよね、「上方漫才祭り」とか見ていたら分かるけど、大阪の寄席文化を守りながら、漫才一本で身を立てている師匠クラスの漫才師って、みんな分かりやすいキャラクターがあって、そのキャラクターの魅力を使える事に、全力を尽くしているの漫才している人がほとんどなのに、漫才一本でやっていきたいみたいな美学を語る人ほど、芸人も作家もファンも、無個性でネタと喋りだけの純粋性みたいなのを求めていくんですよね、でもそんな事している漫才師って、上方演芸の世界にいましたか? いとし・こいしややすし・きよしは、そんな漫才していたか? 例えばM-1の審査員をしている中田カウスにしても、南海キャンディーズキングコングへのコメントや、過去の大会での採点などを見ていたら、自分たちの魅力とか個性を早くお客さんに理解させる事を、凄い大事にしるじゃないですか、中田カウス・ボタンの「スーツを着ないで漫才をした」というのが、凄い新規性とか改革的みたいな象徴で言われるけど、それはもちろんあっただろうけど、「自分たちは今風の若者が、同じ若者に訴えかける漫才をしているんですよ」という分かりやすいギミックという意味合いの方が、僕は重要なことだったのでは、という風に考えるようになっています。というかカウス・ボタンも阪神・巨人も若い頃は、水玉れっぷう隊キングコングなんて足元にも及ばない、アイドル漫才師だったという事を、上方芸能の歴史修正主義者が隠蔽しようとしている気が、最近凄くしているんですが、どうでしょうか?(笑)
なんか正統派の定義というのが、凄い揺らいできている事が、僕は逆にそれこそかわら長介が絶賛するような革命派の方の漫才の人たちが、世に出にくくなっている要因じゃないか? という気が凄くするんですよね、いま価値が凄い逆転していて、かえって柱がない状況になっているから、「漫才の正義」というものが仮にあるとして、そういう「正義超人側の漫才師」というのがいない、いても評価されていないからいないように見えている状況では、アンチヒーローというか、現在の漫才の体制的なもの、正義を疑う側の「悪魔超人側の漫才師」も輝く事が出来ない、自分たちの特殊性とか革命性を目立たせる事が出来ていないように感じてしまう。
なんかいまの大阪のお笑い界って、みんながみんな「HUNTER×HUNTER」を書きたい、読みたいと思っていて、「ドラゴンボール」や「NARUTO」が生まれにくくなっているという状況に思えてならないです。いわゆる正しい少年漫画の価値観というのがあるから、アンチヒーローの活躍する世界観のアニメや漫画も輝くけど、いまはアンチヒーローの話がスタンダードのような錯覚というか、倒錯した状況に大阪の若手のお笑いシーンがなっている。
僕は本来は革命派の方が好きだし、既存の価値観を大きく崩してくれるようなものを、強く期待していることもあるけど、でもここまでスタンダードとか大きな柱となり得るものが気迫になっていると、それに対する不安というのが出てきてしまう。大阪の上方漫才の基本ラインってそこじゃないだろう? という不安感はいまの大阪の若手の現場の流れを見ていると、凄い出てきてしまいます。
という事で何が言いたいかというと、男と女改めて、女と男のお二人は、やはりどんどん和田さんが市川さんを、大きく叩きまくるネタに徹して欲しいと、ファンダンゴで「サライブWAR」を見て思った次第です。
少し毛色の違う話題も最後に。

それで、大阪のお笑いファンって、本当に「お笑いヲタク」で
お笑いに関しては凄いマニアックなのに
他のジャンルに関しては、からっきしダメで
マニア市場だけで食えるのなら何の問題はない:昨日の風はどんなのだっけ? - 一汁一菜絵日記帳

これは凄い良く分かります、お笑いファンになる年齢が大阪は若いというのもあるんでしょうけど、本来はお笑いとかギャグとかは、社会風刺やパロディ的なものが必然的に入るものなのに、お客さんがお笑い以外のものを理解していないから、何かのパロディや風刺をしても分からないから笑えないし、パロディの元ネタを理解していなくても、これは何かを意味しているんだと言う事を汲み取る事も出来ていない。
だからいま大阪の若手芸人文化の中心が(東京の番組で大阪の芸人が主体になっている番組も含めて)、「大喜利」と「エピソードトーク」になっていて、「内輪受け」の「身内弄り」文化になっているのは、風刺やパロディをお客さんが理解出来ない関西お笑い界の土壌というのは、僕は絶対に大きいと思いますよ、だから大阪の賞レースの審査員とかライブの現場の作家さんが、「ドラえもん」とか「水戸黄門」みたいなベタなテーマの漫才ばかりだと言う人が多いんですけど、でもそんなネタじゃないとお客さんが理解出来ない土壌を、あなた達が作ってしまったんじゃないかという矛盾に対する憤りは、僕は凄い強く感じています。「四コママンガ」と「身辺雑記マンガ」しか無くなった、日本の現在のギャグマンガの状況にも似ている。という言い方が分かるのは一部でしょうが(笑)。
いまの大阪のお笑い界って、お子様だけになっているのなら希望はまだあるんだけど、子供の頃からお笑いしか見ないで大人になった30代、下手したらもうすぐ40代みたいなお笑いファンというのが増えてきているから、ますますこの傾向は強くなるでしょうね。
でも僕はさんまさんをきっかけにサッカーも競馬も見るようになった、紳助さんや嘉門さん、雅さんをきっかけにして、70年代の音楽を聴くようになって、そこから広がって色んな音楽を聴くきっかけになった。いま自分が趣味にしている事で、芸人さんに教えて貰った事って多いんだけど、なんかそういう芸人さんが啓蒙するというものも、無くなってきている気がして凄い寂しいなと思います。
そういう意味ではストリークも野球を知らない人、興味がない人に、野球を見たいと思わせる話法というのは、これから必要になってくるかも知れない。ストリークの話を聞いて「野球を見たくなる」という所は、おそらくまだ無いですからね。