90年代前半の関西「天素」という時代

【雑記】・「この間のアメトーーク」 : ふぬけ共和国blog

正直言ってこの番組の今回の企画は、キャストが発表された際にFUJIWARAが入っていなかっただけで絶望して、実際番組が始まったらスタジオに呼ばれていないけど、VTRで登場したんだけど、そのことやその立場を特に弄られたわけでもないし、本人達が「俺たちが一番のつんくファミリー違うんか」みたい不満を叫びみたいなノリも無しで、非常になんだかなあという感じだったのですが、ただ大阪に同じ時代をこっちは完全受け手としてですが生きていた身からしたら、つんくが「天素に入りたかった」というのは凄い理解できるし、やっぱり当時のつんくというかシャ乱Qが大阪で名前をこれから売り出そうとしていた時に、丁度同じ境遇にいて、関西のメディアで共演することが多かったし、東京進出もほぼ同じ時期だった「天然素材」のメンバーに対して、同士的なシンパシーを持っていたんだろうなと言うのは、当時から思っていたことだったから、普通に受け入れられたんですが、これ少しでも世代や地域が違うと全然分からないだろうなと思うし、この時代の大阪の状況を、当時ある程度中にいながら、いま中立的客観的に書き残す仕事というのは、誰かにお願いしたいんですけどね、がっしゃんとか吉村智樹さんとかに、あの時代の大阪の若い人たちの話というのは書き残してもらいたい。
ただ新田さんに反論なのは、つんくの笑いのセンスが「天素に入りたかった」という感想は、別につんく個人の笑いのセンスを語るにあたっては、何の参考にもならないと思うんですよ、大阪の人は全員がそうではもちろんないけど、芸能とかテレビとか表現とかに関心がある人に範囲を限れば、大なり小なりその中の全員に近い人が「お笑い芸人になりたかった」という思いを持っているもんだから、単純に同世代で共演することが多かった「天素」に入りたかったという思いを持つのは、笑いのセンスの共通性しているというよりは、単純に地域と世代の問題ではないかと思います。あの世代で関西にいて、お笑いの現場に近いところというか、ラジオのレギュラー番組で共演などという形で実際につんくはいたわけだし、そりゃ憧れるよ、入りたいと思うし、思わない方がおかしい。あの時代は少しでもお笑い好きな関西の若者は、「天然素材」はファンになるか、アンチになるかの二者選択しかなかった。だからヤンタンで共演したのがFUJIWARAではなく、千原兄弟だったらつんくのスタンスもまた違ってた可能性はあると思いますけど、それだけのことだと思います。実際に少しでも芸人を志す感情があった人は、お笑い芸人に出会うと、自身の資質や嗜好性とは別次元で無条件の尊敬を全員に対して与えがちなもんですし。
しかし80年代から90年代の、お笑い、テレビ、ラジオといった媒体を中心とした、関西のメディア発で生まれていた独自文化というのが、どんなものだったかというのは、やっぱりあの時代にど真ん中で居た世代の物書きが、きちんと総括してもらわないと困ります。
今となっては恥ずかしい大笑いな事だけど、中学生ぐらいの頃って、自分が「大阪人」であることが誇らしかったし、大阪だけで得られる情報やエンターテイメント、若者文化の全てが自分の郷土愛をかき立てられる誇らしいことばかりだった、なんていうことを今となっては凄い書いていて恥ずかしい、赤面ものなことなんだけど、しかしその時代に芸人、ミュージシャン、文化人として大阪で過ごして、いま全国的に花開いている人は沢山いるのに、あの時代の大阪の状況についての総括というのは、やっぱりそろそろやっておくべきなのでは? というのは、享受者として過ごしていた自分は思います。やっぱりあの時代に大阪にいなくて、同世代でもなかった人には、あの時代がどうだったか、その後に大きな影響を与えながらも、どういう影響を残したのかが分かりにくい時代と社会を、心ある大阪出身で現在30代真ん中から後半ぐらいの編集者はムックでも良いからそういう企画立ててくれないでしょうか。