競走馬の余生問題はどうやって考えていくべきか

前にも少し書いたことがあるけど、THE YELLOW MONKEYの『JAM』が嫌いなんですよ。正確に言うとあの曲が嫌いというよりは、あの曲を語る人達が、やたらと「外国で飛行機が墜ちました〜」の下りを、やたらと褒めていることに違和感があります。
飛行機が落ちて100人とか200人とか人が死んでるのに、テレビの報道が「日本人はいませんでした」と、さも良かったことかのように報道するのは、いかがなものかという考えは、まあ気持ちは分からないことはないです。人の命は皆平等で、日本人だろうが、外国人だろうが、人の命が失われたことは等しく扱うべきというのは、正しいことだと思います。
しかし例えば親族や友人の命と、顔見知り程度の人の命と、自分の全く知らない人の命が、個人の中でどこまで平等なものかというのは、倫理的な面を入れても、外しても難しいことだと思うのです。そしてこういうニュースにおいて、一番気がかりなことは、自分の知り合いが犠牲になっていないか、ということです。
だからテレビメディアや新聞などが、「日本人はいませんでした」というのは、日本という島国で、外国人の知り合いがいるという人が、まだまだ少ないこの国において、日本人に向けた報道をする際に、多数の人に向けて「貴方の家族や知り合いが、この飛行機に乗っている可能性は低いですよ」ということの表現の違いとしてあるのは、現時点ではやむを得ないことだと思うのです。これが日本に移民が増えたり、海外に住む日本人、日本に住む外国人が、いまの10倍とか20倍になれば、また変わってくるのでしょう。
自分の知り合いが行方不明になっている時に、身元不明の死体が見つかって、調べてみたら自分の知り合いじゃなかったときに、嬉しく思ってしまうことは、倫理的に問題があると思う人もいるでしょうが、仕方のない感情であるのは確かです。
横山光輝先生が亡くなった時に、僕がブログで追悼の気持ちを書いたら、同じ時期に亡くなった著名人の名前を出して、「会ったことのない漫画家の追悼をわざわざするのはおかしい、知らない人の追悼をするのなら、○○さんの追悼コメントもブログでしろ」という言いがかりを付けられたことがありました。確かに僕にとって横山光輝という人物は、会ったこともない見ず知らずの人です。でも漫画家・横山光輝の作品は、我が自室にある本棚の一角を埋め尽くしていて、小さい頃は鉄人28号のプリントされた毛布で寝起きしていた。大事な「僕の好きな先生」なのです。それを残念ながら名前も覚えていないような方と、同列に追悼しろというのは、言いがかりでしかない話です。人の命や死は平等であっても、それを個人個人がどう受け止めるかは、故人への思い入れとかで差違ができるのは、不自然なことではないはずです。
人間であっても、それこそ荒船山で見つかった遺体が、臼井儀人ではありませんように、という風に願ってしまうわけです。人間の命のことですらそうなんだから、馬の命のことを語るにおいて、その辺の倫理や平等・博愛主義的な価値観とのズレがある話になってしまうことは、覚悟して挑まないといけない。
という長すぎる前口上を踏まえて、『競走馬の余生について考える』という件について、一歩踏み込んだ話が出たことについて、語り始めたいと思います。ただこの件は非常に難しく、ガトーさんもリンク先で書いていますが、性急かつ安易な結論を出すことはできないし、すべきことでもないでしょう。

余生問題① 議論すべき対象を明確にしよう: 馬券日記 オケラセラ

①競馬は競走馬の淘汰なしには成立しない、 ②経済動物たる馬が淘汰されるの必然である、という前提を確認した上で、 ③故に現状を放置する、もしくは、④何らかの線引きをした上で一定数の命を永らえさせる方策を求める、ということになる。本来なら前提部分は軽く触れるぐらいで、現状放置派の人々は早く議論から離脱し、後者の立場から余生を確保する仕組みを考えるというのが時間とエネルギーを節約する道ではあった。

個人的には1と2の前提で引っかかる人について、これはそれがファンも含めた競馬界の外の人達については、中の人達がこの前提条件を、ある程度仕方ないこととして認めて貰えなくても、説明出来る言葉を持つことは求められるでしょう。ただこれは一日一夕で急いで見つけるようなことではなく、またそんなことはできないでしょう。ただその言葉を探す気持ちを持つことは、非常に大切なことだと考えます。
競馬界の中の人で、1と2の前提を認めることができない人、というのもいますが、それについてはもう「どうして貴方は競馬界の内側にいるの?」というしか、現状の僕には言葉がありません。競走馬というのは経済動物、すなわち人の家畜であるということ、そして人間は300年の競馬の歴史において、いやそれ以前からの人と馬との、人類が文明社会を築きだした頃からの関係において、人間の家畜としてしか生きていくことができない種族を、生み出してしまったのです。
馬車や農耕の使役馬や、軍馬、日常的な乗用馬という役割が、馬に求められなくなった以上、人に飼われることでしか生きていくことができないサラブレッドなどの、完全に種として家畜化された馬は、競走馬や競技用馬として使役する役割を与えることで、家畜化された軽種馬は人間の手によって、種を存続させている、という現実は競馬界の中の人は、それに対して受け入れる準備はアルテイ戸必要なのではないかと思っています。

③の現状放置派には大きく2種類あると思う。使役馬がトラックやトラクターに取って代わられた現代社会で競馬を続けていくには、多くの馬を殺処分していく仕組みは存在せざるを得ないという消極的肯定派。もう一つは、競走馬を人間の欲望を充足させる消費財と考え、大量生産、大量消費を促進していく積極的肯定派だ。一見、後者はドライで冷酷なように思えるが、経済性から生産頭数の減少を嘆き、コンビーフにするまでを生産サイクルの一環とする現状はこちらに近い。競走馬生産を牛豚の食肉産業と区別しない立場と重なるところも多いだろう。私は立場を異にするが、論理は通っており、動物愛護の視点から積極的肯定派を攻撃するのは賛同しない。

僕も現状放置派については、自分とは意見や立場を大きく異にしますが、動物愛護や倫理的なスタンスで、それを攻撃批判する感情は僕は持たない。僕にとって馬は、犬や猿、猫などと同じように食用とすることは、躊躇を覚える動物になっていますが、馬は牛や豚と同じ食用を前提とした家畜であるという考え自体は、僕は否定しません。鹿や猪のように、人間のせいであったとしても増えすぎたものは食用にして減らすという考えは、僕自身は抵抗がありますが、否定しきれるものではないでしょう。
また軍鶏や乳牛などの食用以外の用途で、生産されて飼養されてきた動物が、その役割を終えたら食用に転用されるということも、決して珍しくなく、競走用の馬が、その用途での役割を終えたら、食用に転じることに抵抗はない。ある意味、牛や豚、鶏と馬の命を平等に見る見方と言えるでしょう。
僕にとって馬は、最初から食用として生産された重種馬や中間馬であっても、それが馬肉と分かった段階で、口に入れることは躊躇われる動物になってしまっています。これは「この飛行機に日本人はいませんでした」という言葉に引っかかるのと、同じような気持ちかも知れませんが、それでも僕の中で理屈や感情で納得できなくなっていることです。ただそれを他人に押し付けたり、無理に共有することを啓蒙しようとは思わないことです。

これに対して④の立場は心情的には消極的肯定派に寄り添うが、殺処分されていくなかから、一定条件を満たした競走馬には余生を与えられないかと考えるものだ。仮にこちらを現状改善派としよう。消極的肯定派と現状改善派の違いは、余生を与えるシステムが実現できるのかというコストとリソースへの懐疑の度合いだろう。現実的な数値や取り組みの進み方によって、消極的肯定派と現状改善派はそれぞれに転向する可能性が高い。一方、積極的肯定派と現状改善派の溝は深く、それは生命倫理、宗教感情の違いに由来している。

3の積極的肯定派の人の意見の中で、今回の4の立場の動きに批判的な流れがあったのは、命を助けるか否かの選択において、何か基準を設けて線引きということ自体が、罪深いことではないか? という疑問から来る意見がありました。競走馬としての成績がオープン馬だったり、未勝利馬だったりすることで、サラブレッドの優れた種を残すという目的から繁殖という役割を与えられること以外の、命に関わる基準とすべきではないのではないか? という考えは分からないことはないです。
しかしそこで人の思い入れの多い馬を、余生を過ごさせられるのなら優先的にしていくのは、倫理的に問題があるという見方はあるでしょうが、僕にとって名前が出てくる競走馬というのは、身元不明の遺体が、見ず知らずの人であって欲しいと考えるのと同じように、現役時代に馴染みのある馬は、余生を過ごさせてやりたいという思いも、また積極的に否定されることではないと思うのです。
問題はその基準によって生殺与奪まで左右して良いのか? という点において倫理的抵抗を感じる人がいるのは、理解できるのですが、でもそこは競馬という存在、軽種馬を家畜化したということ自体の罪深さや業であり、引退した競走馬に余生を過ごさせるということが、大きな欺瞞のある自己満足であっても、人間の自己満足を虚栄心をくすぐる愛玩動物としての役割、使役を与えてやるという考えでもいいから、僕は可能な限りの限度ある元競走馬に、安穏とした余生を過ごさせてあげたいと考えます。
そしてその基準は、オーナーやファンで世話出来る人や、競馬場や施設などによっては、競走成績と関係なく、毛色の珍しさや馬体の美しさなどで、余生を勝ち取る者もいれば、思い入れがある人にペット当然の引き取られ方する馬もいます。しかしある程度公的なシステムとしての受け皿で考えるのなら、ファンの数や競走成績に左右されるのは、やむを得ないことのように考えます。
馬の命の取捨選択を、競走成績やファンの数で決めることは酷いことと考える人もいるでしょう。しかし馬は犬や猿と同じ、食用にするのは抵抗があるという考えと、馬は牛や鶏と同じで、使役の用を為せなくなったら、他の家畜同様に平等に食用とするべきという考えの違いと同様に、個人の倫理観や宗教観の問題として、百日や千日の議論でも決着する問題ではないでしょう。だからこの問題で議論が堂々巡りになって、この話が停滞することは、どちらの立場の人にとっても、ガトーさんの言うように、水掛け論で時間とエネルギーを無駄にする行為でしょう。
とりあえず目の前に4の立場の人と、3の消極的肯定派の人達で、4に考えが近い人が少し行動を起こせば、何か変えられるかも知れない。僅かでも命を長らえることができる馬が増えて、亡くなった馬に手を合わせる場所があることを望む人達が、そう考える人達だけで何か行動を起こそうという話をしているときに、それに考えが違うからといって、冷や水を浴びせる行為は、ガトーさんの言うように無益な言葉の暴力でしょう。
こちらは馬を他の家畜と同一化して、用が終われば殺して食すればいいという考えの人を、感情論で批判したりはしないから、こっちの考え方を持っている人たちに、冷や水浴びせてそこで話を止まらせることも止めてください。というのはもっと他に議論したいことがある人たちの前では、正しい主張だと思います。どうしてもそこの意見の摺り合わせをしたいのなら、それは別にするべきことでしょう。

『競走馬の余生について考える』を考えてみる(1): Atelier Rouge

私のスタンスとしては「馬の繁殖・出生を"生産"と言って人間がコントロールしている以上、馬は一生人間に"生かされている"のであり、人間の都合でその生死を左右されてしまうのはやむを得ない。」というのが前提にあって、そういう意味では、ガトー氏の言う『消極的肯定派』に属するのでしょう。ただ、自分が思いを寄せた馬(この場合は、競走馬だけでなく、繁殖用馬や乗用馬も含む)がその役目を終えた時に、その命を存えさせてやりたいと思う気持ちは痛いほど解りますし、その気持ちを具体化するためのシステムがあれば良いと言うのも理解できます。

ただ、その想いは「競走成績が良かったから」とか「優秀な仔をたくさん産んだから」という所からは来てないと思うんです。確かに強い馬にはファンも多いでしょうから、"結果的に"成績の良かった馬にはそういう想いを持った人がたくさんいるでしょう。しかし、人が馬に寄せる想いは、その馬の経済的価値などによって軽重を決められるものではないはずです。

せっかくこういう次のステップに話を進められる話が、消極的肯定派を自称し、その立場に立った人からの建設的な話が出た以上は、ここをベースにもう一歩踏み込んだ話ができないか、という風に思うわけです。
そのためには、話を進めたい人たちも、単に話を引っかき回したいだけの横やりに対して、冷静に右から左へ受け流すことも、大切になってくるとは思いますけどね。元々ベストは探せない深い問題なんですから、結論が必要なような対立はするべきではない。僕も今回、倫理的な面での言い訳に、これだけ関係ないこと書かないと、書き出せなかったんだから、なるべく議論は絞って、いまはこのテーマだけ話するとか決めて、ちょっとずつ勧めた方が良いでしょう。個人の思い入れとかを、埋めていく作業だけでも難しいのに、倫理観や宗教観はもちろん、インターネット上の人間関係まで、この問題に持ち込んで話していたら、絶対に終わらないじゃなくて、一ミリも進まないよ、そのぐらいデリケートな問題です。

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