日本にエージェントというものが根付いていないのが一番の問題

雷句先生の問題を読んでいくと、結局はエージェント(代理人)制度というのが、日本の出版界に根付いていないこと、いや日本社会全体で良しとされていないことが問題という気がしてきた。

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「作家に当たり外れがあるように、編集者にも当たり外れがある。でも編集は作家を選べるけど、作家には編集者が選べないんだよ。だから編集者の“外れ”を引いたら悲惨だよ」

これが昨日の違和感の正体でした。そういうことなんですよね。結局元々出版社やそこの社員の編集者に力がありすぎる、そして代理人とか組合活動に対して、現代の日本社会全体に嫌悪感があるということが、別に漫画界や出版界に限らず、日本の労働問題や権利についての障害になっている。
竹熊さんが例に引いている芸能プロダクションだって、実際は自営業者同士の契約というよりは、雇用者と労働者というような関係性になっているし、スポーツの世界では保守的なチーム関係者やファンにとっては、エージェントというのは悪人でしかなく、チームの方針について従順である選手が、良い選手として認識されている現実がある。
またエージェントというようなものが介在している業界でも、出版社の社員編集者が、そういう存在になっている出版業界や、専門紙やスポーツ新聞の担当記者が、エージェントを兼業している競馬の騎手のように、本来のエージェントという意味とは違ったり、問題のある形でエージェント制度が形作られている業種が多いのが実情です。また野球やサッカーのファンのように、エージェントという存在について感情的な否定論がある所も大きく、それを支えにしてエージェント制度というものを潰す声も多い。

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だからこの件について、マンガ家側の個人的な資質に着地するのは、いまの「ワーキングプア問題」とかを、人の問題にするのと同じ違和感がある。これはマンガ出版界のみならず、日本社会のエージェントを良しとしない、フリーの自由業のはずの人が、実質的にどこかに所属していることになるシステムの問題というのも大きい。

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この二人に限らず、本来はフリーの自由業のはずの漫画家が、ここまで特定の編集部や編集者に依存しているという関係が、そもそもおかしいということに着地しなければいけないように思うのです。

「漫画家」は敵ではありません。 雷句誠の今日このごろ。

雷句先生はこう言ってるけど、個人で立脚出来ている人が、組織に寄りかかっている人のせいで、異端児扱いされるというのは、やはりいかがなものかなと思ってしまう。
フリーの人が権利を行使するために、エージェントとユニオンという存在は、やはり必要不可欠だと思うし、エージェントやユニオンが勝手なことをしないように見張ったりしていく形というのも、日本社会全体にこれから必要になってくると痛切に思います。古田敦也宮本慎也、また藤田俊哉のようなリーダーシップを持って、(あのブログが本人と仮定して)橋口たかしのような裏切り者を出さないユニオン体制というのは、マンガ家に限らず、全てのフリーのアーティストやスポーツ選手の為に必要ではないかと思います。少なくともそういったことを、業界の掟に染まったベテランの老人に任せていてはいけない。