千鳥は革新派漫才師か?

千鳥は革新派漫才師か? - 一汁一菜絵日記帳

これは別の場所のコメント欄に書いたものの転載になってしまうんですが、こういう「意味のない言葉や動きと思っていたものが、連続でやると一つのものになると見せかけて、何にもならない」というのは、革新的な漫才をやろうとしている人たちが、一番最初に思い付く定番のような気がするんですよね、僕は色んなコンビがそういうネタをやっている既視感というのが凄くあったし、またこれってそういう革新的なことをやりたい人が、1年目とか2年目にやることじゃないの? という思いは強くしました。それをM-1決勝四回目の千鳥が、堂々と本選でやってしまうのは、正直なんだかなあと思いました。実際に決勝の場でも審査コメントとして、「あれはいらない」と巨人師匠に一刀両断されてしまったし、千鳥自身もABCお笑い新人グランプリで最優秀新人賞を取って、二回目のM-1決勝に上がったあたりまでが、一番面白いものを出してきていて、その後少しトーンダウンしている印象はあります。
そして革新派か保守派かということでいうと、いま千鳥が大阪で朝昼のおばちゃん向け情報番組のレポーターとして、引っ張りだこになっている状態が、全てを物語っていますよね、彼らの人間的な本質が明らかに革新というか改革派ではなく、保守的な面が強くある、でもそれは全然悪い事じゃないし、いまおそらく千鳥はbaseよしもと所属となっている芸人の中で、もしかしたら一番稼げているかも知れない(南海キャンディーズが形の上では所属扱いになっていますが)、それは素晴らしいことなんだから、そちらをきちんと評価していれば「革新派漫才師」なんて評価はいらないというかむしろ邪魔になってくる。
松紳」で島田紳助が「M-1グランプリ」の構想を語っていた頃に言っていたとき、その目的として「ダウンタウンが焼け野原にしてしまった、漫才界を復興させる」ということを盛んにいっていたし、M-1関係の本でもインタビューで答えている。その「ダウンタウンが焼け野原にした」というのは、革新的な漫才としての勢力を広げすぎたことという反省が、あの頃のダウンタウンはしきりに話していた。
だから保守本流の漫才文化の復興というのを、M-1グランプリを作った二人はもちろん、各所色んな所でそういう流れは出来ているのに、大阪だけが「革新的な漫才だけを評価する有名作家」「分かる人だけ分かれば良いという芸人集団と、それを賛美するお笑いファン」という、焼き畑農法みたいなことが延々と続いているのは、そりゃ大阪のお笑い界の土壌が痩せてくる印象を、ある種の人たちが感じるのも仕方ないかなと思ってしまいます。
話を千鳥に戻しますが、僕は笑い飯は(それだけの才能や資質が本当にあるかどうかは別にして)ダウンタウンを目指しても良いかも知れないけど、千鳥はトミーズを目指すべきだったんじゃないか? 早い段階でそういう進む道がこの二組は分かれるべきだったんじゃないか? という思いは、いま特に千鳥が大阪のお茶の間の人気者になりかけているのを見ると、余計に強く感じてしまいます。
こういう本人の資質的に、革新派、革命派に入らない人が、その当時の業界の都合とか構造、また交友関係などや時代背景的に、本当なら保守本流派の人が、革新革命派に括られることって、映画や音楽、漫画などのジャンルでグループ分けするときに、括られるときはよくあることなんですが、そういう事になった人って、結構不幸な結果に落ち着くことが多いから、早く本人達の資質にあった評価というのが得られると良いなと思います。
なんか改めて、そんなにお笑い好きじゃないうちの父親の去年のM-1の千鳥への感想が的確だったんだなということを思い知らされる。

朝青龍と笑い飯 - 一汁一菜絵日記帳

笑い飯については少しだけ、僕は笑い飯は元々大きく評価していた側なので、言い訳と反省も兼ねてということになりますが、僕は彼らの才能と言うこと自体はまだ疑っていないんですが、「ないなーないなー器が大きくないなー」というのを読んで感じたのですが、何事においてもそうですが、革新派で最前線の位置に立つというのは、凄い芸人として、漫才師としてというより、純粋に人として精神的にかなり大変なことなんですよね、逆風も批判も一番前で真正面から受ける所に立たされるというのは、人間として強くないと難しい所にぶち当たるんですよね、例えば漫才ブームにしても、ひょうきん族にしても、お笑い第三世代ブームにしても、ツービートや明石家さんまダウンタウンと出てきたときは、同等ぐらいの評価と人気を得ていた芸人さんがいて、お笑いブームの中でその人たちが、芸人としては通用していたのに、人としてブームの最前線にいることに耐えられなくて脱落していった人たちは、沢山いた訳じゃないですが、代表例として名前を挙げさせて貰うと、ツービートに対しての星セントルイスがその代表例だった。
笑い飯にはいまの次代のお笑い界、テレビ界において、漫才革新派の旗頭になるには、山本昌邦が言うところの「人間力」が足りないし、そこで凄い苦しんでいるように思えて、僕は同情的に感じてしまいます。彼らも少し身の丈に合っていない役目に潰されそうになっている。
しかし笑い飯に関しては、島田紳助松本人志と最近のM-1での採点と、彼らが自分たちの番組に笑い飯を使おうとしないということで、メッセージは出ている気がするなあ、革命軍としての戦力としては見切られているように見える、ではそのときに何をするのかというと、再び革命軍の先陣を切れるぐらいに、芸がではなく人として強くなるか、笑い飯という漫才を保守本流にしてしまうかのどちらかだと思うのですが?

マイク一本、一千万―ノンフィクション「M‐1グランプリ2003」マイク一本、一千万―ノンフィクション「M‐1グランプリ2003」
唐澤 和也

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