ダイアンが念願の決勝進出を果たしたその裏で… : 一汁一菜絵日記帳

大阪準決勝にどんなネタをやったのかというのを、見に行った方の感想で確認すると、「なんでそのネタやねん」と思うコンビが結構いますね、去年と一昨年は現場で見ていたときも、ストリークとかNON STYLEとか天津とかに、そういうガッカリ感を味あわされましたが、特に今回はbase勢中心にやっちゃった人が多かったようで、鎌鼬とかハムとか藤崎マーケットのネタ選択を見ていると、「そんなに君たちはスタイリッシュなことがやりたいのか?」という気持ちに改めてなります。山内や諸見里のキャラを強く押し出さないネタを、いまこのタイミングでやる意味はないはずなんですよね、ましてハムなんかは初の準決勝の大舞台なんだから、「ラップ」のネタよりももっと諸見里のキャラを出せるネタを持って行くべきだった、ここは素直に「あいのり」の方で良かった。
勝山梶、ソラシド、span!あたりは、にづかさんが指摘している天津の失敗と同じ感じですね、「ラララライ体操を封印」とか「オタクネタに頼らない」とか「ムーディ勝山のキャラに頼らない」みたいなことを評価してくれるのは、本当に一部の内輪のファンだけということに、baseよしもと関係者は芸人だけじゃなくて、作家とかスタッフとかはもちろんだけどお客さんも含めて、早く気付くべきだと思います。芸人の中でもプラスマイナスとかNON STYLEは気付いてるっぽいけど、それが評価の流れにならないのはしんどい。
まあbaseよしもとが内輪向けになっていると言いますが、大阪の松竹の若手も全く逆の方向性で、内輪向けになっていることに変わりはないんですけどね、東京の若手芸人さんの方が自分たちを売り込むネタ作りとかネタの選択というのを心得ている感じは、同じ人の準決勝の東西両方見た感想を見ると感じますね。
しかしM-1だけでなく、関西には数多くある賞レースを見ていると、決勝大会の常連とか入賞する常連の人とかいますが、やっぱりどの賞レースも明確な基準と審査傾向がありますよね、毎年評価高いにもかかわらず、決勝まで行けない人たちはどうしてそういうことを分析しないのだろうと不思議で仕方ないです。特にM-1なんて何人かの審査員は明確に基準を語っているわけで、かわら長介とか前田政二とかがブログや会場での総評コメントなんかで、全否定しているような設定や傾向のネタを、わざわざ準決勝に持ってきてやっている人は、事前のリサーチ不足とか言われても仕方ないと思うんですけどね、「審査員よりも自分が好きなことをやりたい」ということを言って良いのは、こういうコンクールでは、それをやっても圧倒的に力でねじ伏せることが出来る人だけでしょう。それが許されるのは今年のメンバーなら笑い飯麒麟だけ、ギリギリ千鳥までだと思うよ。キングコング品川庄司ですら傾向を分析して来ているのに、それを昨日今日オーディションに合格して吉本や松竹の芸人になりましたという人がやるのは不遜ですよ。
内に閉じるんじゃなく、外に向けてメッセージを送ってほしいし、好きなことを面白いことをやっても、お客さんに伝わらなきゃ意味がないということを、やっぱり考えて欲しいです。かわら長介じゃないけど、小手先の笑いではなく、何を伝えたいのかという本質の部分と、それを伝えるためにはどうしたら良いか? そういうことを考えるきっかけを与えている人がいるのは良いことだと思います。
だからかわら長介の個々の論評とか、実際の審査結果には疑問も結構あるんだけど、その辺をブレないで提示し続けているのは素晴らしいと思います。