善意が元なら何をしても許されるという価値観

僕はこのダイアリーでも何度か、元の思いが善意だからといって結果責任を問わないのは違うと思うといいましたが、それについてDr.Mさんが次のような事例を紹介して下さっています。

もう、忘れられつつある『四日市「誤認逮捕」死亡事件』。当時情報が錯綜し報道に差異があった。
現場に近い所にお住まいの方から詳しい内容を知らせてもらったが、凄まじい状況だったらしい。
取り押さえに加わった男は6〜7名とのこと。床に落ちたペットのエサを拾おうとしたおじいさんの顔面にヒザ蹴りを決める男、羽交い締めにしたあげく張り手や跳び蹴りを食らわす男。さらに床にうつぶせのまま手錠をかけて後ろ手に20分間も押さえつけた警官。
相手がヤクザでも同じことをしたか?真面目そうな初老の男性だったから寄って集って、殴る蹴るの暴行を加えただけだろう。
結局、この事件、逮捕に加わった者はみんな「善意」だから、との理由でなんのお咎めもなし。私は腑に落ちないが。
零細企業経営者の闘魂日記 2004/04/17

法律用語で『善意の第三者』という言葉がありますが、果たして当事者までもが善意を隠れ蓑にして責任から逃れることがあって良いのでしょうか?
この三悪党は外患誘致罪が適当とまでは僕は思いませんが、今後起こるであろう世界中の人が拉致される危険性のきっかけわ作った責任は感じてもらいたいです。例え自作自演でなくても無謀な計画から拉致されたことは変わらない以上。まあ僕は善意すら認めないけどね、本当に「電車の置き石」と同じだと思います。