「(僕たちが愛した)テレビは死んだ」

FNS27時間テレビ感想(総評) - おわライター疾走

人の心に響く文章というのは、基本的に考え方が違う人からしたら、突っ込み所満載の文章なんだろうなあというのを、思い知らされるエントリーです。僕は基本的にこのエントリーの中身については、言い過ぎかなと思うところはあるけれども、概ねで賛同してしまうポジションにいます。ただあえてポジショントークをする気にもなれない事だったんだけど、僕が感じた突っ込み所を、そのまま指摘しているエントリーを複数読んで、やっぱり対岸の人間としては、これだけは言っておかなくてはと思ったので、ラリーさんへの賛同者としてのエントリーを書いておきます。
まず今回の27時間テレビというのが、所謂「ひょうきん族」的な価値観に対する、ノスタルジィというのが、全面的な売りだったのは間違いないし、明石家さんまビートたけしラサール石井小堺一機には、その価値観を明確に後の世代に託すか、託せる人間がいなかったら、ここで埋葬してしまうという覚悟は、画面から感じようとする人には、感じることが出来る熱があった。
しかしこの大御所四人から投げられたボールなのか、襷なのか、バトンなのかは分からないけれど、それを取りに来た人は、いやそういったものが、今まさに投げられたこと自体に気付いたのが、あの場所に今田耕司しかいなかったという事実、その寂しさ、でもあの瞬間は最高に輝いていた、大笑い出来たということ、その輝きは、まさにベタだけど、「蝋燭の消える前の一瞬の輝き」的なものを感じさせるものだった。だからその瞬間に、「私たちが愛した「テレビ的なノリ」は死んだ」というのは、凄い分かってしまうのです。
だって僕たちは物心付いた時には、すでに欽ちゃんは過去の人であり、ドリフターズいかりや長介が、(今から考えると)ネタを作っていない時代に入っていて、既にテレビのバラエティというのは、「ひょうきん族的な価値観」というものが、全てにおいて浸透していた。それは「オレたちひょうきん族」という番組を直接見ていなくても、「笑っていいとも」や「FNS27時間テレビ」はもちろん、フジテレビの社内カウンターであった「とんねるず」の一連のフジのバラエティや、ひょうきん族の中心メンバーが、ひょうきん族が終わってからの活動などで、この四半世紀のテレビバラエティに浸透していた。
僕たちにとってテレビというのは、80年代にフジテレビが提示した「ひょうきん族以降」の「テレビ的なノリ」というのが、既に浸透しきっていた後だった。それ以外のものは何もなかった。そんな時代にまともに「TVっ子」として育った人間が、自分たちのゆりかごの解体を、あんなに物凄い形で見せられたら、そりゃ心が揺さぶられるよ、という話じゃないですか。

私たちが愛した「テレビ的なノリ」としてのテレビ文化は静かにその幕を閉じるはずだ。

そうあくまでもこれは“私たちが愛した”テレビ文化の幕引きなんです。
だからこの意見というのは、「そうだ」と思う人もいれば、「そうではない」と思う人もいて、それはどっちも正しいんだろうけども、テレビは死んだ、バラエティは終わった、という人たちの意見の中には、括弧付きだったり括弧が付いていない形で、確実に「僕たちの」とか「僕たちの愛した」という言葉は付いていて、その“僕たち”“私たち”の部分というのが、この件の本質という気はしています。だからあえて不特定多数に発信する媒体で、書くことではないなと思ったけれど、予想通りに突っ込まれたら、賛同者としてのポジションに立ってしまう。
だから「テレビは死んでいない」とか「そんな大層なことではない」という意見は、間違っていないし、それはそれで真理であり事実なんだろうけども、それが真理や真実でない人が、いま興している最後の祭りに対して、投げてきて良いカウンターなのかな? ということを感じた次第です。
例えば「南海ホークス」の“南海”の部分にこだわって、「自分の愛したホークスが無くなった」と嘆いている人に、「“ホークス”はいまもあるじゃないか」というのは、やっぱり無粋だと思うし、南海にもホークスにも思い入れがない人が、踏み込んでは行けない所だと、少なくとも僕は思うのです。
ただ個人の感情や思い入れで書いていたり、賛同している部分が強いものに対して、その前提を無視して、このエントリーに対して、カウンターをかけることは、少しだけ無粋な気がしています。僕らが物心付いた頃にはもうとっくに始まっていた祭りが、ついに終わろうとしているんだから、祭りの外にいる人にとやかく言われたくはない。自分は乗れない祭りで騒いでいる人がいるな、ということを感じて思って発言するのは、当然のことだとは思いますが、あなた達にとってのテレビは死んでいないかも知れないけれど、僕たちにとってのテレビは死んだ、という気持ちまで、否定するようなカウンターは品がないとまでは言わないけれど、無粋だなと思います。まあ正に品がないリアクションも、他方面ではあるんでしょうが、そういう所は、流石に論外として無視しています(笑)。
だからこれは毎週の「爆笑レッドカーペット」が面白かろうが、年末の「M-1グランプリ」を楽しみに待つ気持ちとは、交わらないし矛盾しない、という所まで説明出来れば、完璧なエントリーなんだろうけど、そこまできちんと説明することは、僕のキャパを超えすぎです(笑)。並行世界のものだというと語弊があるし正しくないけれど、演芸とテレビバラエティの違いとか、その辺巧く説明しきれないのは悔しいし、自分でも詰めが甘いどころか、無いエントリーだなあと思います(苦笑)。

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ラサール石井

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