テレビバラエティにおける“お約束”というパラダイム

出演者を身内で固める事も良し悪しだなあ 2008年7月14日放送分のなるトモを録画視聴メモ:アホ理系青年の主張/窓野マサミ・真 非公式Blog:

ダウンタウンが東京で冠番組を持ち出した頃に、所謂大阪でのダウンタウンファミリーが一斉に東京に呼ばれて行った時に、Wコージキム兄なんかが、ダウンタウン以外のバラエティ番組に出た時に、明らかに彼らはこれまでの東京のバラエティ番組における、集団芸のお約束のクラッシャーになっていた。ぶっちゃげて言わせてもらうと、それまで日本のテレビ界においてバラエティの常識となっていた、たけし軍団的なお約束を壊していっていた。実際にWコージ木村祐一は、この時期に大阪のラジオなどで、東京のテレビ番組の収録中に「なぜ約束事を守らない」というような説教を受けたと発言していたし、収録が終わってからたけし軍団ダチョウ倶楽部に囲まれたという話もあった。
しかし結果的にこの勝負は、ダウンタウンファミリーの芸人の勝利に終わって、たけし軍団的なお約束はテレビバラエティの第一線からは遠ざかり、ダウンタウンWコージによって、大阪吉本のNSC以降の世代によるお約束的な集団芸が、新たなテレビバラエティの常識になるというパラダイムシフトが起きた。このパラダイムの変化に対応出来ずに、多くの「ひょうきん族」世代の芸人が、テレビバラエティの現場の第一線から去ることになり、大阪的な集団芸を回せる存在として、島田紳助笑福亭鶴瓶の台頭を生み、明石家さんまは最初その変化に苦しみながらも、過去と現在の流行を巧く組み合わる方法を「さんまのスポーツするぞ」において、Wコージやナイナイと共に編み出して、それは「明石家マンション物語」で一応の結実といえるだけの結果を残した。そしていま「明石家さんちゃんねる」という番組で、吉本の若手の集団芸と、小島よしおや鳥居みゆき、慶といった新たな世代の芸人を戦わせている。

クラッシャーが来てもなんとかできる腕がある人ならいいけれど、そうじゃない人は、あまり身内のメンバーに慣れすぎると、いずれ致命傷を負うことになりそうだなと思ったのだった。

結局この致命傷というのが、その一芸人の大怪我だけでは済まずに、一つの集団芸の流行、バラエティの常識的なお約束そのものを殺す事だってあることは、90年代に大阪吉本のNSC世代の芸人が、ひょうきん族たけし軍団的なやり方を殺して、天下を奪い取ったのを見てきてるから、吉本的な集団芸という“ぬるま湯”に浸りきってしまった時に、異邦人によって攻め滅ぼされる時が来るのか? 少なくともそういう場所は与えられつつあるし、それを期待する層がうっすらであるが、視聴者の方にも出来つつあることだけは確かでしょう。
やっぱりダウンタウンとそのファミリーの東京進出の、本当に価値観を変えてやろうという変革の戦いをガチンコでしている風に見えたというのは、本当にリアルタイムで見ていて純粋にワクワク出来たし、これは例えば、ひょうきん族とんねるずの革命の時も同じだった。そういう新たなスターの登場やお笑いブームにおいて、ダウンタウンまでは確かにあった革命の匂いが、その後の若手の台頭やブームに薄かったというのが、ダウンタウン以降のお笑いにおけるムーヴメントが、そんなに世間を巻き込んだ大きなものにならなかった要因じゃないか? という風には最近思っています。まあダウンタウンの革命自体が、中途半端に思ったということも尾を引いているような気も最近しているんですが。
しかし明石家さんまもそうだけど、一部の番組では明らかに番組制作者が、そういう戦場を用意しよう、道具立てしようとしている、そこに迂闊に踏み込むことの恐ろしさを、芸人の側が分かっていないから、失敗に思っている番組も多々あるけれど、それを理解して刀を懐に忍ばせた連中が、そういう場所に沢山現れだしたら、それは凄い面白いことが始まる予感となるでしょう。

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ラサール石井

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