終了を受けて『M-1グランプリ』の目的と成果を改めて考える

今年の初めにもこんなことを書いていたけど、このタイミングでもう一度書いておこうと思いました。
なんかM-1が始まって十年経って、新しいお笑いファンが増えたり、お笑いを特に深く見てない人の目にも、M-1が晒される視聴率になったこともあって、M-1が成立した過程とか、時代的な背景や意義などが、現代に伝わっていないように感じたので、その辺のことをしっかりと書き記しておきたいと思います。
最近、ある古典芸能の世界で、革新性の高い芸をしている芸人さんが、次のような内容のことをつぶやいていました。それは「今の漫才のスタイルが発明されてからもうすぐ100年になる。伝統芸能になる一歩手前だ 。てことは廃れてくるぞ〜。」という内容。これは極めてクリティカルな内容を沢山含んでいます。
伝統芸能になったら廃れるという話は、海老蔵とか、最近僕が目撃した落語家の話とか、某講談師の体験談を聞いた話とか、色々と分かる話もありますが、これは別の機会に触れる。まあ伝統芸能になると、その芸能は一般的には廃れ、ジジババのものになって、補助金漬けになっていって芸人のモラルが低下していくという、よくある一般論の話があるということを前提に話を進めます。そして漫才はもうすぐいまのスタイルになって100年になる。そろそろ伝統芸能化して廃れていくという予測を立てられた訳です。
しかしこの前提には一つだけ突っこみたいところがある。それは漫才が伝統芸能化して廃れていくのに、100年もかかっていないだろうと、実はもう80年とか90年目ぐらいの段階で廃れかけて、伝統芸能化するタイミングは、過去にもあったんじゃないかということです。
まず一つは漫才ブームの終了、これも実はかなりやばかったと思うけど、このときは漫才ブームでブレイクした人達が、あまり漫才界に執着せずに解散していってくれたこと、そしてこの時にブームを見て育った世代が出てきた(ダウンタウン、トミーズ、ウンナンB21……の世代)、こうして次の世代が出てきたことで、新たな流れに漫才界を持っていくことができた。吉本のここでNSCをつくって、師匠と弟子の継承芸という流れをぶった切った功績も大きい。これが第一の漫才の古典芸能化が阻止された瞬間です。間違いなく最初の漫才古典化の流れを阻止した功績は吉本にある。
そして次の漫才古典化最大の危機は、90年代西も東も若手がコント主体になって、漫才する人がほとんど現れなかったこと、特にテレビでネタを出来る環境にある芸人に漫才をする人がいなくなって、大阪では2丁目漫才禁止令もあったし、松竹もメインストリームはあくまでよゐこ、TKO、のイズであって、漫才勢はフロントラインとはいえなかった(アメザリも最初はコントだった)。吉本勢でも漫才やってた若手は、残念ながらその当時の感想でも、今振り返っても二番手以下の実力グループの人達ばかりになっていたし、あと弟子っ子の方が多かった。
そんな中で大阪でテレビの最前線で漫才できる実力を持ってやっていた、中川家、ますだおかだ、ハリガネロックアメリカザリガニ、ルート33が、漫才の不遇時代に守ってた人達という、やまもとさんの見解は極めて正しいでしょう。歴史を公平に見て振り返っている声です。
このとき島田紳助が「このままでは漫才が滅んでしまう」というのは、先ほどの古典になったら廃れるという意味での「古典化してしまう」ことの恐怖でしょう。だからこそ紳助はM-1を設立した。東京の古い寄席文化や、大阪の劇場といった狭い場所でだけ、受け継がれていく伝統芸になっては、未来がないという危惧が島田紳助M-1設立に向け手の大きな原動力となった。この事は『松紳』でのこれから漫才の大きな大会を作るという構想を練っている回の放送を見れば、もう少し意義が伝わるのでしょう。

M-1の最大の功績は、漫才のスポーツ化ということに尽きるでしょう。古典化してこのまま分かる人だけ分かる笑いになり、一般の人が楽しめるポイントが無くなっていく前に、スポーツ化するという分かりやすい味方を提示する空間を作った。ただこれは大阪には前からあった賞レース文化の踏襲でもあった。それが最初大阪の若手漫才師には入り込みやすいというハンデはあったけど、既存の仕組みを新しいムーヴメントに利用できたメリットは大きかった。そして何より紳助が放り投げたバトンを受けられる人達が、そういう場に耐えうる漫才をやる人達が残っていたことは大きかった。ルート33は残念だったし、ハリガネロックアメリカザリガニは栄冠は掴めなかったけど、M-1に大きな役割を果たしたし、M-1が出来る前に漫才がご臨終になることを防ぐ活躍がオンバトなどであった。中川家ますだおかだはしっかりと次の世代に紳助から投げられたバトンを継承することが出来た。
M-1という大会はM-1があった時期に、若手としてもっとも脂がのっていた世代のもので、同じく前述のやまもとさんが、M-1グランドチャンピオン大会をやったら、中川家とますだおかだ二組とフット以降で漫才世代が違うから前二組が不利という話をしていますが、これも凄く正しい。明らかに02と03のフットと笑い飯を境にして、漫才は別物になっている。それはサッカーにおけるオフサイドルールの変更とか、競泳の水着ルールの変更ぐらいのルールの変更が、M-1ではなく漫才界にあった。そてその変革は間違いなくM-1によってもたらされた。
M-1をきっかけにして、フット、ブラマヨ、チュート、笑い飯麒麟キングコング、ノンスタなどのここ二、三年が10年目ラストチャンスだった人達が、新しい漫才のルールを作ってしまった。2002年を境に漫才は別物になっていった、ここで漫才を別物に変えていった人達こそがM-1世代と言える漫才師でしょう。
これは東京の人たちも同じ、もっと言うと東京漫才はもっと大きな変化があった。それはM-1という大阪、吉本の漫才文化からの流れに沿っていったことで、一気に東京の漫才師もこの「大阪漫才2002」の波に、呑まれたというか乗っかったというか、これで東西で違う文化、違うルールでやっていた漫才が、東西共通のルールの元に行われるようになった。
この傾向は東京吉本の人達を見れば一目瞭然で、漫才もコントも東京吉本の人達は、極楽とんぼもロンブーもガレッジセールもダイノジ品川庄司も、大阪の人達が見ていかにも東京な漫才やコントをしていた。これはなかなか説明しにくいけど、大阪人が肌感覚でそう感じるもの位で考えて欲しい。これはコンビが双方関西人のDonDokoDonですらそうだった、あの二人は関西人で関西弁で漫才していても、大阪の子は東京の匂いを感じた。余談だけど、だから悪名高い2001年の決勝一般審査で、彼等は大阪の得票が酷かったんだと思う(笑)。この東京の匂いというのはイコールで古臭い形の漫才の匂いだった。
しかしある時期からトータルテンボス筆頭に、東京吉本の芸人の漫才のスタイルは標準語だろうか、東京弁だろうが、完全に大阪スタイルになった。M-1決勝をリアルに見据えたときに、それまで東京スタイルでやってた品川庄司も、もしかしたら新しい東京スタイルになってたかも知れない。東京ダイナマイトもすっかり「大阪漫才2002」以降の流れにアップデートされていた(このコンビに関しては、これはあんまり良くなかったと思うけど)。これは紳助の示した古典への道の否定、そのためのスポーツ化という流れで出来た風潮であり、フットと笑い飯が引いた道だったと思う。だからM-1は誰のものかと言われたら、僕はこの二組のものだと思う。
しかし紳助や松本からでは、フットや笑い飯には直接バトンは渡せなかったでしょう。それはあまりにも遠すぎた。でもバトンが受け継がれていたのは、漫才が壊滅していた時期に、きちんとテレビで世間向けの漫才をする流れを絶やさなかった、中川家ますだおかだの世代の功績、彼等が漫才を絶やさなかった。そしてバトンを次に渡した。中川家ますだおかだが扉を開いて、フットボールアワー笑い飯が形を完全に決めた。
この事柄の大きさをM-1十周年、しかもラストイヤーとなったこのタイミングで、もう一度考えても良いと思う。いや本当に1995年から2000年って、漫才かなりやばかったことを忘れてはいけない。M-1がなかったら、漫才って絶対に廃れていたんだよ。テレビで漫才なんて正月にNHKでしか見れなくて、そこには若い人や、アーティストみたいなものを見る目で、お笑い芸人を見るような人を引きつけるものは、何もない漫才ばかりが流されていたんですよ。
それを前提にしないで、「M-1だけが漫才じゃない」とか「M-1が特別視されすぎてる」というのはおかしい、2001年の段階では、M-1だけが漫才だったよ、そしてこの10年一気に日本のお笑い界の中心に漫才があったんだから、M-1が特別なのは当然でしょう。この功績はM-1作って運営している吉本と紳助にあるんだから、この人達が漫才を自分たちの都合良く道筋作りたいのは当たり前。というか他の連中は漫才が古く死に体の文化になっていくのを指加えてたどころか、落語のように古典化して一部の人達が巣くえる利権になるのを、じっと待っていたんだから、はっきりいって古臭い連中や寄席の協会とかが、いまさらごちゃごちゃいってた時期は本当にむかついた(笑)。おまえらが何もしなかった、むしろ弱体化を図っていたときに、吉本は一社で漫才復活させようとしてたんだから、文句言ってないで付いてくるか無視するかだけしてろと、現代風の漫才を創造する、そしてそれを大衆向けコンテンツとしてビジネスにするという目標を立てて、それを成功させた吉本と紳助の功績は、ゼロ年代のお笑い界において、最も重要なファクターであったと、僕はこの場に断言して書き記しておきたい。
まあというわけでぐだぐだ言ってきたけど、紳助と吉本が漫才を殺させないとしたときに、しっかりと次の世代までバトンを受け継ぐ人達がいた。その大きさを改めて中川家ますだおかだアメリカザリガニハリガネロックには感謝したい。もちろんM-1の流れには乗れなかったけど、ルート33矢野兵動、シンプレ、ティーアップといった兄さん達にも。
という思い出話と、M-1が大阪と吉本の流れになるのは、当たり前だろ馬鹿野郎。とい二つの話を混ぜたお話でありました。本当はおぎやはぎの話も混ぜれたんだけど、巧く挟み込めなかったけど、ただ言えるのは昨今の漫才ブームにおいて、唯一東から西に入ったものは、おぎやはぎ的なものだと思うし、そこに上方現代漫才の流れが入ることで、フットボールアワー笑い飯、そして東京だけどアンタッチャブルのような完成型が生まれた。
でも東京も大阪も僅かな例外を除いて、ほぼ古典化の流れに進んでいた漫才界、そこに風穴を開ける為に作られたM-1、そしてそのスタートラインに立てる漫才師が大阪に少し、東京にほんの少しいたこと、そして最初のスタートラインに立った人達から、バトンを受け継ぐ人達がいて、さらに育っていく土壌が生まれたこと、これらのことを無視してM-1の意義とか存在価値、そういったものを考えないのは、やはり何かを間違えてしまうと思います。