日本の学校教育は学校でやることとやらないことを一度根本的に見つめ直すべき

痛いニュース(ノ∀`) : 【発言小町】 「人にボールを当てて喜ぶなんて、乱暴で教育上よくない」…ドッジボールをどう思いますか?

この話を人伝に聞いたときに、僕は自分が今年に書いたブログ記事を二つ思い出しました。

まず基本として抑えておくべきは、三月に書いた「スポーツを教育の奴隷から解放しよう」という記事で、ここに書いてあるように、スポーツとか芸術というのは、本当は日本的な教育的という観点からは、本来ほど遠い者なんですよ。スポーツとは対戦相手の嫌がることをするのが本質で、芸術とか芸能というのは不健全だから素晴らしいという側面があるものです。本来、教育なんてものと結びつけるべきではない。
だからドッジボールという競技自体を、教育的観点なんてものから規制するのもおかしな話だし、かといって教育という価値観から、体育の授業に取り入れたりして、嫌がる子にやらせるようなものでもないんです。学校の授業でドッジボールはやるのは反対だけど、休み時間にやりたい子が集まってやるのを、止めることも反対です。
それが学校の授業でとかが絡んでくるからややこしいことになる訳で、友達同士の付き合いで無理矢理やらせられるのと、大人から強制された授業システムで無理矢理やらせられるのも、また同じ無理矢理でも意味が全然違ってきますからね。ドッジボールはあくまでも娯楽、レクリエーションとしてのスポーツなんだから、やりたい奴だけが集まってやる。それだけで良いはずなんですよね。それ以上でも、それ以下でもない。
あの『ゲーム脳』の教授いるじゃないですか、あの理論って「野球とかサッカーも脳に悪影響」だと言ってるんですが、そんなことは無視して、『ゲーム脳』とか言い出してる野球界やサッカー界の人も多いんですが、それも含めて、こういう意見が教育的見地として、日本の教育界で持て囃される状況というのは、ある種の娯楽性の否定というのがあると考えれば、それは色々とわかりやすいわけです。「教育的」という振りで、スポーツとか芸能とかはもう語らない方が、スポーツ界にも芸能・芸術の世界にも幸せなように思うのです。
僕はスポーツなんていうのは、そもそも学校でやるべきものと全く思ってないですから、ある種の職業訓練の域として、プロのスポーツ選手や、五輪に出るようなアスリートを育成するというのならともかく、学校の体育の授業なんていうのは、特に小学校というのは最低限の体力作りということを前提にすればいいのに、そんなことはほとんどしない。運動神経に劣る子や体力に弱い子を、徐々に丈夫にしていったり、スポーツを好きにさせたりしないで、単純に弱い子を脱落させることしかしていないわけで、日本の教育の平等主義は相手に合わせるということではなく、とりあえずみんな一緒のことをさせることで、結果的に凄い不平等な状況を作っている。
そしてそんな不平等なことしているのに、体育の授業でスポーツするとなったら、また野球とかドッジボールとか、運動能力の差がはっきり出るスポーツばっかりさせるんですよね、そしてこのリンク先でのドッジボール擁護派の人達も、子供の頃に「スポーツが出来た人」が、反対している人に対して、「こいつらどうせ運動音痴だろ(笑)」という反応ばかりなわけで、そりゃ「ドッジボールは学校で止めさせよう」という意見が出るのも無理もないと思ってしまう。こういう運動音痴な人を、運動できる人がいじめても良い、思い出の中で差別意識を持ったことを、大人になっても恥ずかしげもなく言えるというのは、僕は日本の学校の体育教育の歪んだ平等主義が、一つの要因としてあると考えています。
しかし自由にさせればいいと思いながらも、日本の子供のレクリエーションとしてのドッジボールのあり方は、色々と問題も多いと思いますよ、というのはいまの話とは別に、子供に防具も付けさせずに、土のグラウンドとかで、「他人にボールぶつけるスポーツさせる」という状況は、あまり安全なレクリエーションとは言えないと思います。
僕は『ドッジ弾平』の直撃世代なんで、小学館や当時の文部省とかが、広告代理店と組んでドッジボールを子供のスポーツとして、国際的なものにしようという動きをしていたの見ていたけど、浸透しませんでしたからね。
なんかスポーツなんて、その競技をやりたい人がやれば良いんであって、学校に強制されるものではないはずなんですよね、学校の体育授業として、最低限の健康な身体作り以上のことは、やりたい人だけが選択できるので良いと思うのに、明らかに野球やサッカー、ドッジボールといった競技を、同世代の子と一緒にやる体力や運動神経に達していない子に、無理矢理させることで、日本ではそこで無理して頑張ったからみたいなストーリーばかり紹介されてるけど、実際はトラウマ作ってる子の方が多いと思う。
そういう、たかがスポーツなんていう娯楽ですら、やりたくないことを教育という題目で、拒否する事が許されない空気こそが、いまの学校のトラブルでの自殺の一番の原因だと思うんですよ。いじめもそうだけど、とにかく逃げ出せない、逃げることが許される空気が、学校という社会にも世間にも蔓延しているのが、死ぬことでしか逃げ場は得られないという考えに児童を追い込んでいる。
嫌なことが原因で死ぬぐらいなら、辞めちゃった方が良いんだ。という当たり前のことが、当たり前になっていないから、子供も大人も、なにかに行き詰まっただけで自殺してしまう。年間自殺と認定されてるだけで三万人、そうではないのを入れると一説に日本は10万人が年間に自殺しているというのを放置しているのは、僕はもうこれは「社会的殺人」と言って良いと思うけど、日本人は小さいときから、些細な物事においても「逃げられない」という状況に置かれすぎだと思います。
前々からネットでもよく見るし、橋下知事とか筆頭にマッチョな論客に多い、子供の頃に理不尽な目には、沢山遭わせておいて耐性付けさせるべき論者って、小さい頃の理不尽において、大人になっても深刻なトラウマ抱えている人の話とか、一切無視するからなあ、それこそどんなに袋叩きにあっても、この手の人達は絶対に意固地に向かってくるし。
またこの辺の理不尽なことされた時代というのを、記憶で美化しているというのも、いまの30代後半から40代たりの世代を中心に多いんだ。美化しているのだったら良いけど、多少「自分たちは嫌な思いしたんだから、下の世代も同じ事味わったら良いんだ」的な気持ちも無いことはないのが見え隠れするから、本当にタチが悪いと思っていて、だから僕はいま問題になっている「ゆとり世代」というのが、全然問題だと思っていなくて、むしろ「ゆとり世代」の方が普通で、彼等をコントロールできない上の世代の方に、それは問題がないか? と思うことの方が多かったりする。
最近急に「ゆとり世代」と交流が増えた僕としては、「これが“ゆとり世代”だ」として例に出されているような奴は、僕らの時代も含めて、どんな世代にでもいるような問題児の類例で、本当の“ゆとり世代”に全体的に多い傾向という風にも思わないんですよね。
結局、上の世代が「今までのやり方がやりにくくなった」ってだけで愚痴ってるだけで、でも人を指導したり、監督したり、教育的な立場を取る人は、そこは下の世代のせいにしないで、新しい価値観を持った人たちに対して、どう合わせて導いていくかというのが、やるべきことだろうと思うんですけどね、それこそ無能や不適任の言い訳を、下の世代に押し付けてる風にしか聞こえない。

B000UOP1JQ超熱血高校くにおくん ドッジボール部
アークシステムワークス 2008-03-19

by G-Tools