イデオロギーやアカデミズムに寄らないエンタメ批評空間を求めて

僕は漫画評論における夏目房之介竹熊健太郎の業績は、日本における批評文化全体に、多大な貢献をした素晴らしい仕事だったと評価しています。彼等の登場までの漫画評論というのは、作品テーマを語ることに重きが置かれて、イデオロギー的な解釈や、アカデミズム的な切り口や論評ばかりが先行して、これらの切り口で論評できない作品は、評論の価値がないものとばかりに無視されていた。
しかしこの二人の登場によって、漫画は漫画の言葉で、あくまで漫画として批評していく、夏目房之介はこれを「漫画の文法」と定義して、イデオロギーやアカデミズムに寄らないで、漫画は漫画の言葉として、表現論やコマの文法、オノマトペ、そして掲載雑誌の媒体の違いによる作品テーマといった。漫画を漫画として語るという次元を切り開いていった。
そして竹熊さんは初期で外れたけど、この取り組みはNHKの『BSマンガ夜話』という形でエンタメ化して、さらにそこに大月隆寛というアカデミズムの人間も加わり、最終的には夏目房之介が大学で漫画論の教鞭を執るようになったことで、言葉は悪いけど逆進出することになった。
マンガ夜話』におけるエンタメ化は、結果的に「週刊少年ジャンプ」や「花とゆめ」のような大部数メジャー誌での人気作品、といったイデオロギーやアカデミズムを元にしては、正しくテーマ性を探るところまで到達できないところに、光を当てることが出来るようになった。大衆に受けるものを大衆に分かる言葉で、漫画という共通文化がある人には、漫画の言葉で漫画を語れるようになった。そこに本来漫画とは関係のないイデオロギーとアカデミズムを廃した、漫画を語るという幸せな空間が作られることになった。
だから僕は最近の若手批評家や言論人が、漫画語りにおいて、イデオロギー的なテーマを探したり、アカデミズムな切り口での漫画語りを復活させている動きには、このブログでも何度も嫌悪感を表明してきた。また一部の人達が、一部の作品を論じる為の漫画批評に、戻すような動きについては神経質に見ていきたいと考えている。
お笑い批評というのは今世紀に入ってから出来たジャンルです。それまでの演芸批評は老人が古典を語り、昔は良かったという為のものであり、テレビのバラエティ番組の批評というのは、メディア批評の一ジャンル、サブカテゴリであって、お笑いを論じるというのはメインではなく、あくまでもメディアの中のお笑いを語ることによって、メディアや社会を語ることが主目的であり、お笑いはその為の手段でしかなかった。
しかしお笑い・ネタ的には『オンバト』『M-1』、バラエティ的にはセミドキュメンタリー系のバラエティ番組の増加によって、お笑い批評というものが、一ジャンルとして独立する下地が生まれていった。だからこれまでの演芸評論家とメディアウォッチャー系のライターと、ゼロ年代に入ってからのお笑い批評というのは、完全に別ジャンルと考えて、ほぼ問題はない。
そしてこのジャンルでは『オンバト』と『M-1』が、最初からテーマとか学術的なことはおいといて、極めて実践的なお笑い批評を初手から展開していたことは、いきなりお笑い語りを大衆に届く形で始めたことで、お笑い批評というのが、一気に一ジャンルとして大きくなることになった。『オンバト』は自分が面白かったかどうかを、一般の人が生の舞台を観て、その場で感覚的に判断して、玉を入れるという行為でもって決められるという身体性の強い批評空間であり、『M-1』は実際にメジャーで成功した経験がある人で、なおかつ経験則を論理的に語られる人が、ゴールデンタイムのテレビショーという舞台を意識した語りをしている訳で、まさにお笑いをお笑いとして語る場となっていた。最初からイデオロギーやアカデミズムの色が薄い形で、お笑い批評というのはスタートすることができた。
しかし「お笑いブーム」がやってきたせいで、お笑い批評という空間が、有り体にいうと「馬鹿に見つかった」ということになるんですよね、この場合の馬鹿というのは、イデオロギーで物事を語りたい人、テーマについてアカデミズムな議論をしたい人達が、出版や音楽の不況によって流れてきたというのが、サブカル雑誌がお笑いを扱うきっかけであり、難しいテーマを持ち込みたい人達の流入になりました。
だからここ何年かのM-1などでは、テーマ性みたいなものが語られるようになり、そういったものを考慮しないM-1決勝の審査というのが、批判を受けるようになってきた。時代に逆行とか革命とか反逆といったイデオロギー的なテーマで語りたがる人が増えたのは、そういう下地によるものと考えています。
でも世間的にはどうもお笑いブームは終わったらしいので、こういうお笑いが流行っているようだから、当面の食い物にしようとしていた人達は、一斉にいなくなることは決定した訳です。これからは20年とか30年ぐらい常にお笑いブームが自分の中では続いてるみたいな、“生まれてからずっとエブリデイお笑いブーム”な人達によって、お笑い批評を取り戻して、お笑いの言葉でお笑いを語る文化の再構築の日が近付いてきているのです。
だからアカデミズムみたいなものを、下品な言い回しで振り回してくる連中に、大衆文化であるお笑いの批評空間を、荒らし回られる訳にはいかないんだよね。学問的純粋性なんて、大衆文化の極みみたいなお笑いに導入することに無理がある。世間とか聴衆によって揺らぐものが大衆文化であり、その揺らぎを見るべき大衆文化批評とアカデミズムは根本的に相容れるものではない。

東京ポッド許可局、ラリー遠田にパクられたと主張している一連の揉め事について - 似非トーライ(ese - tori)

そういう意味で一番最初にまとめた人間が、自分のオリジナルの論であることを主張できる。なんていう主張はアカデミズムや学問的な、お勉強の出来る人達にとっては正論でも、大衆文化の歴史あるお笑いを語るのに、持ち込まれる事なんて絶対に許してたまるかよ。
今回の揉めている本題よりも、これで東京ポッドの連中のやり方が正義になって本流になることを恐れる。そうなったらお笑い語りは一気にダメになってしまう。こいつらは意図的に、語る資格のある人とない人を作ろうとしているし、東西の文化断絶も意識的に起こそうとしている。「小朝論」「手数論」「松本結婚論」など、誰でも思いつくようなこ、誰でも口にしていたことを、さも自分たちの独創性のある主張といって、他の人達の口を塞ごうとし、自分たちを優位に持っていこうとする、こんな連中に「お笑いを語る」という楽しみを専売特許にされちゃたまらない。
まあただネット空間って、特別なものにしたい、自分たちだけのものにしたいという連中が、存在感強くなりすぎるのは、他でも多々見られることなんですけどね。東京ポッドに関しては、上のリンク先のつぶやきまとめで、ほぼ言い尽くしたので、僕の考えはそちらをご参照下さい。

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ラサール石井
角川SSコミュニケーションズ 2008-02

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