ジーコの罪は無能だったけど、岡田の罪は無策〜結果と分けて判断しなくてはいけないこと

例え岡田監督が有能な監督としての素質豊かであっても、それを提供していないんだから、評価されないのは当然だよね。出している結果とか期待感が低い以上、僕はこの時点で「ジーコ以下」という評価を下すことに、抵抗が完全になくなっています。

やる夫で学ぶフットボールの歴史 par5 - やる夫板Ⅱ

結局、頭が悪い選手が多すぎるし、自分で考えられない奴に、言うこと聞かせることも出来ない、と。|つまりもう論理的に解釈しようとすれば、本大会でいきなり全部変えると思うしかないぐらい、いまやってることは無いということで、これはとても岡田監督の擁護には、やっぱりなっていないよな。
どっちにしろ本大会で、いきなり初めてやることを出すのなら、いまさら監督は変えられないという更迭への反論は、全く意味を成さなくなりますよね、突然これから違うことを始めるのが一緒なら、そしてここまで世間の岡田監督に対する、期待や希望が無くなっているのなら、ファンに応援して貰えるチームにすることも考えないといけない。最近ピクシーやオシムが、「自分たちの国の代表チームなんだから、岡田監督気に入らなくても応援しよう」といってるのは、いま日本のサッカーファンが、ヤバイ段階で代表から心が離れていることを、察知してくれているだけですからね。

栗原は実質1バックで快足FWムルジャとの1対1に晒されていたお。

この他にも栗原が、実質1バックで晒されていることが多かったことを指摘、あれで評価されるのが、あまりにも酷い結果なのが分かる。あと闘莉王がいればというのは、闘莉王自身が自分でも言ってたけど、もし栗原のところに闘莉王が入っていたら、魅惑の0バックになってたんじゃねえの?

インタビューで栗原が
「自分はマリノスの守り方で徳永は東京の守り方で守ってしまった」
って言ってたな

これはつまり「代表の守り方」というのが存在しない。もしくはあっても栗原と徳永には、伝わっていなかったから、それぞれ自分のチームでやってることをするしかなかったということで、いかにこのチームが守備を作れていないか分かる証言でしょう。

今考えると興梠1トップっていうのはメッシをCFの位置に置くグアルディオラのパクリな気がしてきた

岡田監督は、グアルディオラバルサのパクリがやりたいだけ、というのがますます立証されている?

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なんか岡田更迭で、大木昇格に希望を持っている人の、夢を一発で壊すような流れだな。ただ実際に大木さんの攻撃作りと、岡田さんの守備の作り方の思想があっていない。ということは強く感じてしまう。

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つーか稲本と阿部のボランチコンビって、よく考えなくても、どっちも頭で考えるより身体が先に出るタイプだよね、そういうオブラートに包むことを一切止めると、アホコンビなんだよね。トルシエが稲本の横には戸田、明神、伊東を必ず置いた理由、阿部を合宿には呼んだげと試合には招集しなかった理由が、八年経ってようやく明らかになった。

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しかしここでのブクマコメントとか、ガゼッタさんの代表関連エントリーへのコメント見ていると、いま彼らが語っている理屈や理論は、結果で裏返せると思っている人が、ジーコ時代もそうだったけど、案外多いことのほうが痛い。理論や理屈の正誤は、決して結果には左右されない。馬券が外れるのと、予想のロジックの正しさの評価は別なのと同じ。自分が気に入らない理屈や理論があったら、それは結果待ちではなく、相手を上回る理屈や理論でしか相手を黙らせることは出来ない。そんな単純なことが分からない人が多すぎる。だって日本でtotoを一番当ててる人が、日本で一番優秀なサッカー評論家や分析家とは誰も思わないでしょ? 逆もまた真なり。結果だけでは批判している人を、「ごめんなさい」させることなんてことは出来るはずがない。
これは日本のスポーツファンは、理屈や理論や検証ではなく、情緒や感情、浪花節でスポーツを見ている、愛していると言うことの表れなんだろうなと思う。正しい理屈よりも、浪花節的な感情が上回る。だから目の前に起きていることを無視して「オレの○○を信じる」というのが、正論のように聞こえてしまう。
結果ではなく理屈や理論が間違っていた時しか、「ごめんなさい」なんてことはあり得ない。結果が逆に出て「ごめんなさい」するという状況は、理屈や理論が間違えて結果が裏返った時だけで、結果だけで「ごめんなさい」するようなことはあってはならない。
好悪と正誤がごっちゃという指摘については、ジーコ贔屓、岡ちゃん贔屓の人に多いよなあ。アンチトルシエの人にも多かったけど、ジーコジャパンの時は、運に助けられたり、久保や藤田、田中誠らの個人のハイパープレーに助けられたり、相手の自滅といった要素で勝ちを拾っていったせいで、「正しくない勝ち方」によって、結果が出ているとチームの内容について語ることを良しとしない、ある意味で思考停止を是とする風潮に、発言力・説得力を持たせるような失態を、サッカー論客の人たちがしてしまった。
ジーコジャパンの統括と総決算にあたって、あの一連の言説も含めた総括を行って、結果で物を語ることがいかにアホらしいことか、意味のないことなのかという、論理的思考で代表を見ていく、サッカーを見ていくことに向き合うべきだったのに、そんなことまであの「オシムって言っちゃったね」は、向き合うタイミングを失わさせた。2006年の代表の総括というのは、実は協会やチームの問題だけでなく、日本のサッカーの周辺環境の総括すら行われなかった。だから四年経ってジーコジャパンが陥った問題と、同じようなことが岡田ジャパンでも、より酷い状態で起きているし、それに対しての批判の言葉が整理されていなかった。
ジーコジャパンの一番の問題は、問題を覆い隠す勝利と、問題が浮き彫りにならない敗戦というのが多かった。ということに尽きると思っている。これがあえて問題を浮き彫りにすることで、チームを作りを進めていたトルシエオシムに対して、いまだに批判的な人がいる一方で、ジーコのことを2006年の本大会の結果以外に、批判的な要素を見出さない人の理由だと思っている。

サッカー日本代表 - Wikipedia

結果的にジーコジャパンの勝利は、内容が伴わなくても勝てる相手が、いま振り返ると多かった。例えばジーコジャパンの最大の金星は、アウェーのチェコ戦だったと思うんだけど、これも親善試合だったし、そもそもチェコ代表って豪華メンバーで期待されたけど、代表チームはそんなに大きな結果を残せなかった程度のチームなんだよね、というのはあくまで結果論だから、あの試合に価値をおいてる人は不快でしょう? だから結果論では覆らないんです。僕はこう考えているけど、こんな結果論は相手を説得できる論理性は何もない。
それを前提に続けますが、チェコ戦にしても、結局は久保と稲本の個の力が大きかった。ジーコジャパンは「個の力で勝つ」がチームコンセプトなんだから、それは良いんだけど、「個の力で勝てない相手にはどうするの?」という命題に対しては、ついに答えが無く、答える必要もないまま本大会を迎えてしまった。他の代表マッチで印象的な勝利というのは、全て格下相手に苦労した上で、久保、大黒、藤田、田中誠、楢崎等のスーパープレイがあったけど、それも個の力がチームの方針によって高まったわけではなく、オマーン北朝鮮シンガポールが相手の試合でのことだったわけですからね。

ムカつく内容(「岡田ジャパンの決定的戦術ミス」という本) | へりくつくりそつサッカーファン

昨日も話題にしましたが、岡田ジャパンの試合を見ていて思うのは、選手個人の問題として、テクニックとか強さとか足の早さとか以前の問題として、「周りが見えてない、気が利かない、判断力がない」という頭が悪いとしか言いようがない要素が強い。監督のコンセプトの言いなりになってるとか、守備の時のカバーリングの遅れとかにつながっている。日本のサッカー選手の問題はフィジカルではなく、戦術理解力と言われるように、サッカーは巧いけど、頭が悪いと言わざるを得ない状況になっている。
単純にサッカーがフィジカル的に巧い連中ばかり集めると、要はサッカー的にバカばっかりになってしまう。ということが起きているように見えるわけで、そりゃオフトは森保、トルシエは戸田、明神、オシムは山岸を重宝したはずだと、岡田ジャパンを見ていると思い知らされる。外人の代表監督にとって、一番重要な選手選考のファクターが「俺の話を理解できるぐらい頭が良い奴」だったということを、今一度見つめ直すべきだと思う。
ジーコはそういう選手を呼ばなかったけど、あのときはヒデがいた(ヒデがいないときには藤田がいた)から、何とかまだバランス取れていたけれども、結局エースと黒子の二役なんてものが、本大会で結果を出せるはずもなく。ということだよなあ。ジーコの考えとしては、俊輔がエースで、ヒデが黒子のイメージだったのかも知れないけど、本大会で俊輔はコンディション不良で挑みエースの役割を果たせずというのもあったけど、そもそもヒデが黒子に徹しきれるはずもなく。それが出来ていたらプランデッリパルマで、ヒデはCLに出られていたよな。
最後にもう一度「理屈だって、理論として成立した批判は、結果で裏返らない」という話について、実例をあげておきたい。僕はジーコを監督として完全に見切ったのは、2004年2月に久保のスーパーゴールで1-0で勝利したオマーン戦です。この際には合宿を抜け出して、何名かの選手がキャバクラに言ったことが話題になりましたし、結果は勝利でしたが、試合内容でオマーンに完敗していたことは、多くのサッカー論客が指摘しています。このとき出場した選手のうち三人が高熱を出していたのに出場を強行した。確かインフルエンザという話もあったはずです。これを止めることが出来なかった、むしろジーコが出場させたことを受けて、僕は「例えジーコジャパンがワールドカップで優勝しても、僕はジーコを監督として絶対に認めない」と決意して、それを表明し言い続けました。僕はこれは一生変わらないです。

しかしこれについては当時も、今でも「ワールドカップで優勝する監督を評価しないのはおかしい」と言ってくる人がいますが、僕はワールドカップで優勝するチームの監督でも、インフルエンザで39度とか40度の高熱の選手に「出るか?」と聞いて「出たい」といったからといって、試合に使う監督はどんな結果を出しても、絶対に認められません。おかしいことでしょうか? それは人の命とワールドカップなら、ワールドカップの方が大事と言ってるのと同じ事です。そんなことは僕はとてもじゃないが認められません。
オマーン戦で山田や柳沢がピッチ上で死ななかったのは、運が良かっただけだと思っています。しかし結果的に死ななかったから良いのでしょうか? 避けれたにもかかわらず、そんな状況を作ってしまったことが既に良くないので、そこにはもう結果は必要ないんです。例えば2006年の本大会にしても、日本を下回る酷い準備だったクロアチアが同組で、オージー、ブラジル相手には日本は先制していました。ここでオージーとブラジルが、勝手に自滅していたら、日本はベスト16に残れた可能性だってあるんです。いくらこっちがダメでも、相手が勝手に下回ってくれるというのは、この大会でのクロアチアがそうだったように、可能性はないわけではないのです。実際に日本以上にチームが崩壊していたらしいクロアチア戦は、互角とも日本の方が上戸の見方も出来る内容だったのに、あのQBKのおかげでスコアレスドローに終わったように、ケイヒルロナウドたまたまこの日調子悪かったら、日本が勝っていたかも知れないわけです。もちろんそんな豪運というのは、内容を伴う準備が出来たところにしか訪れないものですから、そんなことは考えなくて良いんだけど、でも山田や柳沢がオマーン戦の後で無事だったように、クロアチア目線で見て、日本の柳沢がQBKしてくれたおかげで、勝ち点1を拾えたようなことはあるわけですから、そういう結果で左右されてはいけない。
しかし岡田ジャパンジーコジャパンが、ワールドカップで結果を出さなかったからといって、嬉しくないかというと、そんなことはまた違うんですよね、マークシートの記入ミスで取った馬券でも嬉しいことに代わりはない。ただ馬券は当たっていても、自分の予想が外れていることは間違いないんだから、その点は反省するべき。それは逆も同じ事だと思うのです。

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とりあえずスケゴーさんは凄い選手をリスペクトしていると思うけどなあ。どちらかというと、選手の特性を考えずに起用して、選手の持ち味を発揮していない指導者の方に批判が向いてるでしょう。選手や監督をリスペクトするのと、変なところを突っこまないのは違うよな。この辺は日本のスポーツファンのプレイヤーを尊敬しすぎる余り、批判を許さなくなるところも関わっていそう。
まあそんなこんなも全部ひっくるめて、2006年の代表は日本に反省材料と負の遺産を残したけど、2010年の代表はペンペン草を残すだけになることを、僕は強く恐れるのです。これが本大会の結果だけで、全てが覆ったり、肯定されては、また一からではなく、ゼロから始めることになってしまう。そういうことは極力避けて、積み上げていくことが大切でしょう。目の前のことに一喜一憂じゃなく。体系立てて考えていかなくてはいけないんだけど、それをするには日本サッカーは事あるごとに、協会もマスコミもファンも全てをリセットしすぎている。

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