お笑いはメジャーに向けて市場を広げた方が良い理由

『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか? - 昨日の風はどんなのだっけ?

今回は僕の『M-1グランプリ』について、自分のポジションというか、自分がバックに考えていたことを、一度まとめて出してみたうえで、他と自分の考えを比較した時に、一番思ったこと、気が付いたことというか、他の方の意見の中で、僕が疑問に感じた一番のポイントは、結局みんなM-1とかをダシに違う話がしたい。
本当に語りたいことは、汎用アーティスト論だったり。表現論だったりしませんか? という疑問を僕は感じていたことに気付きました。しかもそのM-1とかお笑いに乗っかってやっている、汎用表現論とか汎用アーティスト論というのが。僕には凄い時代遅れの臭いを感じました。
もう少し細かくいってしまうと、大昔には文学や芸術に乗っかっていた。そういう表現論やアーティスト論が、そこで時代遅れになって、そういう語りをしたい人たちが漫画や音楽に移っていき、そこで語られるようになって、そこでも時代遅れになったものが、いまテレビのバラエティや漫才語りになっているのでは? というのはサブカル雑誌の中心が、ロックやアニメから、いまお笑いに移っているという物理的なことも含めて、そういうお笑い論が10年前のアニメ語り、20年前の音楽や漫画語りに、漠然と似ているところを感じるのです。
そしてもうそういう、アーティストとして芸人を語ったり、芸術とか表現みたいに漫才やコントを語るのも、もういい加減一周回って古くなってないか? という思いもあるのです。メジャーな舞台における芸人アーティスト化の象徴だった。松本人志が孤高の殻を破って、親バカなパパやっているという姿を晒すようになったりしているのは、これはもう象徴的なことですが。有吉弘行がいまやっているバラエティの解体というのは、批評で持ち上げられる事への皮肉や、インタビューなどへの警戒感というのは、やはりお笑い語りというのは、二周目に入ってきている。そういう汎用アーティスト論や表現論で、語ることの気恥ずかしさを、僕は感じるようになっています。
映画や音楽では古くさくなって、出来なくなっていった「アーティスト様論」みたいなものが、マンガやアニメのほうに移っていって、いまはお笑いがその舞台になっている。という、他のジャンルでは80年代や90年代にとっくに終わった、と思っていたような話が、お笑い業界を舞台にして、蒸し返されているような気がしています。
僕はやっぱりお笑いについては、「自分がどれだけ笑ったか」という主観の絶対評価と、「みんなで笑えたか」という客観的な相対評価という、この二つを大切にしたいと思うんですよ。だからそれが事実かどうかはおいといて、「M-1で“チンポジ”で勝負を捨てにいった笑い飯はエライ」という主観は自由だけど、その自分の主観が世間の評価とズレたときに、世間の方を悪く言うのはもう止めようよ。お笑いはたまに見ますぐらいの人たちは、パンクブーブーNON STYLEのほうが面白い、と言ってるんだということは、きちんと認めて自分は評価するという方が、きっと豊かな市場が形成されると思います。
いまテレビ番組がバラエティばかり、ネタ番組ばかりになっているのは、不景気で予算がなくてみたいな話が、色々と出ていますけど、僕はそれだけではないと考えています。
それは、日本でお笑いだけが、唯一マスを対象にした娯楽として、生き残ったからだと考えています。『うたばん』や『HEY! HEY! HEY!』のトーク番組化とか、例えばガンダムや韓流ドラマを語るバラエティのほうが、テレビコンテンツとして売れているのは、他の音楽や映画やアニメやマンガや活字が、アート語りによって滅んだり、マス相手の娯楽として機能しなくなっている中で、お笑いだけがうまいこと、マス向けコンテンツとして生き残っている。
先ほどから書いているように、いまコンテンツとして、テレビがお笑い番組一色になっているように、マス相手に商売としての機能が、一番残っているジャンルだと考えています。唯一、不特定多数の大衆、老若男女に向けて売れるジャンルとして、お笑いが残っている。そんなコンテンツは、他には四年に一度のオリンピックやワールドカップみたいなものしかないですよ? こんな大衆向けという、一番美味しい市場を、ほぼ利権といっても良いぐらい独占に成功しかけている状況というのは、関係者だけでなく、ファンにとってもおいしいことなんだから、そこをお笑いをアート語りしている人たちの希望に沿って、メジャーで大衆なほうに背を向ける必要があるのでしょうか? そういうアート語りのせいで、邦画も邦楽も一度滅びたのに、そういうアート語りの進出を食い止めようとしないどころか、乗っかってしまうのは、そういうアート語りは楽しいし、なんかそういう俎板に上がるのは、お笑いとかバラエティが、一つ上のステージに上がったように思えるから、甘い誘惑ではあるんですが、あまり深入りしすぎると先鋭化して、市場の縮小につながってしまう。
M-1の優勝が分かりやすい万人受けの漫才が続いてること、松本人志が育児話をし出す、そして有吉の登場は、僕は明確にお笑い界で、そういうアート語りでお笑いを論じることは、二周目に入っているというサインと考えています。バナナマンバカリズム笑い飯がどうしてラーメンズの切り開いた道、というのに素直に向かっていないのか? ということは、もう少し検討材料にしても良いのではないでしょうか?
お笑いが大衆に向けてマスで売れていることの、ファンの側のメリットというのは、市場が大きければ大きいほど、多様なものが出やすいんですよね。メジャーが売れなくなって、市場規模が低下したら、一番真っ先に切られるのはマイナーなもので、実はニッチなものというのは、豊かな市場をバックボーンに備えている業界ほど出やすい。だから僕は先のエントリーで、最後に取って付けたような多様性に言及したのは、大衆に分かりやすい人が、きちんと評価されるほうが、豊かな市場が作られて、マイナーな人たちがより生き残るようになる、ということも踏まえたつもりでいます。
それ以前の問題として、少数意見を主張するために、メジャーにケチ付けるというスタイルが、僕にはもうギリギリ90年代までだろ、という風に思うんですよ。もうそれなら最初からM-1なんて気にしないで、ライブに行ってあげればいいじゃん、と。ただM-1とかレッカペがメジャーな方向に、舵を切ってくれているから、そういうマイナーなライブやDVD、ネット配信なんかもできる、たまにテレビでも扱える余裕があるということです。
せっかくいまお笑いがブームになって、定着とまで言われるようになっているんだから、邦画や邦楽の二の舞にはさせたくない。という思いが子どもの頃からお笑いファンで、いま少し関わらせて貰っている身からも、願わずにはいられないです。
この話は、漫画評論に関する話として、もう少しだけ続きます。

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