お笑い審査の公平性の保ち方

吉本興業芸人 ぜんじろうによるブログ「ラフゼン」!: M-1の一回戦

前回には、ショージさん格好良い、ぜんじろうさんは幸せ者という切り口だけでしたが、この件について、少し踏み込みたくなりました。

よく公平な審査と言われるが、
厳密に言うと「公平」なんて言うのは
人間の決める優劣には不可能だ。

なので、ある程度のラインで見切りを付け
その中で公平を保たなければいけない。

キングオブコント」がバッシングを受けたのは、結局は誰が優勝したとか、誰が優勝しなかった、ということではなく、この「公平」に見えるラインの見切りが、ダメダメだったということに尽きるんですよね、いや正直、吉本に限らず、事務所ライブとか、ローカル局の賞レースなんかで、このぐらいのラインで見切っているイベントは沢山ありますよね、でもそれが騒ぎにならないのは、見ている人の分母が圧倒的に少なかったり、この程度の見切りでも許してあげる温かい客に恵まれているイベント、ということなんですが、どうも「キングオブコント」は、これまでの吉本社内イベントの感覚で、一部のスタッフが「公平」のラインを切ってしまった印象がある。
例えばあるお笑いの大会を立ち上げた人たちが、凄く嫌っている、かつての藤本義一の審査とか、いま色々と話題になっていて、僕も批判的なM-1におけるかわら長介の審査なども、彼らのように知名度のある人、業界内で立場がある人が、名前と顔を出して審査をして、その審査理由をそれぞれコメント出して明確にしている、その結果や内容に対して批判の矢面にも立っている。審査する側の人間が、ある程度責任取る立場にいるというのは、ある程度の公平性の担保にはなっている。
でも藤本義一とかの審査を批判していた人たちが、「キングオブコント」に限らずですが、自分たちの顔も名前も出さない所で、芸人を審査したり、どっちが勝った負けたの判定をしているというのは、公平性を保つことが出来ている、と言えるのでしょうか?
まあ東京も大阪も、吉本も非吉本も、一部のカリスマチックな芸人やお笑い業界関係者が、肯定したことは、無条件で追随するファンが、そういう傾向を助長しているというのが、一番の問題なんでしょうが、「おれたちは面白いんだから、おれたちがやることは、無条件で面白がるべき、俺たちの提示した基準に文句言うな」というのは、客に「何も考えるな」と言ってるのと同じ事で、それはお客さんをバカにしているんじゃない? という風に思ってしまうし、そんなことを言わない分だけ、僕は藤本義一キダタローかわら長介の審査の方が、結果責任と説明責任を負ってる分だけ、まだマシなのではないかという風に、考えるようになってきています。もちろんM-1やR-1の決勝審査員も、責任をきちんと負って審査している、だからM-1と今年のR-1の決勝の結果は、小さな文句は出ても、大きな文句が出てこない。

ダイナマイト関西2008FAINAL - 一汁一菜絵日記帳

そういう意味では、このイベントも審査している人は、せめて舞台上に顔出しで判定するべきだよなあ、格闘技とか真剣勝負というのなら、どこの世界の柔道やレスリングで、判定役が舞台に上がっていないことはないでしょう。内々のイベントだけでやっていた頃は、それこそ木村さんとかが、ラジオやブログで「あれは公平」といえば収まるだろうけど、イベントが大きくなって、一見のお客さんが見るようになって、テレビ中継も本格的にされるようになって、吉本外の出演者が増えたら、それでは収まらなくなると思うのですが。
でも例え判定が、見ている人からして逆だったとしても、判定薬の人が名前と顔を出してるだけで、かなりの人は納得すると思うんですよね、ただ一部のバカがその人のブログ荒らしに行ったりするだろうから、やっぱり難しいか。

マイク一本、一千万―ノンフィクション「M‐1グランプリ2003」マイク一本、一千万―ノンフィクション「M‐1グランプリ2003」
唐澤 和也

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