テレビを戦場にするため上での決意と覚悟

こちらはかなり前項と毛色の違う話となります。

探偵ナイトスクープ(末尾追記) - Arisanのノート

大阪のテレビ界が90年代の真ん中ぐらいまで、こういう自由度が高かったというのは、キダ・タロー浜村淳と、軍隊について論じている番組の動画を見れば明らかですが、上岡龍太郎は自分を貫くことを止めない、その為には番組の空気を潰すことも厭わないし、自分の看板となっている番組の司会者席すら放棄して、立ち去ることが出来る。そしてそれが芸として成り立たせることが出来る人だった。
自らの美学や信念、そして話芸に対する誇り、これらを邪魔するものを憎み、それに対してあがらって来た人たちが、テレビの中にも沢山いた、テレビがまだ本来の意味での芸人が、それを貫くことを許した時代は、ほんの少し前まであった。彼ら芸人の前には、枠もルールも常識も意味がなかった。芸人の美学や信念、芸への誇りの方が大事だった時代があった。
しかし上岡龍太郎が去った後、大阪のテレビ界は視聴者の情の部分に迎合する、評論家やキャスターが並ぶ情報番組ばかりが連なり、アナーキーやシュールを売りにしている芸人ですら、「ルールの中で暴れる」なんて言ってるのが持て囃されてしまう(発言者のケンコバ本人は、このコメントが持て囃されているのに、気持ち悪さ感じているようにも見える時はありますけどね、ギャグのようにして使ってることもあるらしいですし)、そこにテレビ人の矜持、芸人の誇りといえるものがあると、この上岡龍太郎を前にして言えるのだろうか? 鶴瓶は生放送でチンコ出したけど、いまそれが出来る芸人がいるのか? いややらなくて良いんですが(笑)。
あと上岡龍太郎は現役じゃない、という所はもちろんあるでしょうが、父親が共産党公認で出馬経験があって、自身も左派ということを表明していたし、先のリンクで紹介している動画でも、そういう事に関して、極端な発言があるけれども、あんまりそのことが理由で、いまの「九条信者叩き」みたいな標的に、コメントとか見てもなっていないのは、この辺の覚悟の違いに感じ入る所はあるでしょう。もちろん一番の理由は、現役じゃないからでしょうが。

引退―嫌われ者の美学引退―嫌われ者の美学
上岡龍太郎

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