お笑い芸人なんて本来格好悪いものなんだと思う

だが、それがいい。」という話をしていきます。

baseの女性客はやっぱりおかん化してると思う - 一汁一菜絵日記帳

でも、僕は「お笑い芸人って所詮イロモノ、キワモノ」
だと思いますし「でも、だからこそ素晴らしい」と思うのですよ。

これって、にづかさんの次の日のブログエントリーで、明石家さんまについて触れていることにも繋がっていますよね。

踊る!さんま御殿 - 一汁一菜絵日記帳

あ、あとさんまがふかわに言った
「普通の人はお笑いが解らなくてもいい」は
名言だと思います。

これって完全に通じている話ですよね、というか明石家さんまはいつの頃からか、お笑いを目指す若い人や若手芸人が言い出した、「笑われる芸人ではなく、笑わせる芸人になりたい」という言い草について、絶対に強い反発があるんですよ、これはもう本人は直接的には言っていないけれど、間接的にそういうことは沢山実際に言ってるし、ジミー大西を世に送り出したのは「吉本に対する反発があった」と証言しているけれど、それ反発の理由の一つには、絶対にそういう風潮に対する反発もあったのは、結構間違いないと考えています。だからあの時期のさんまさんは、ヤンタンなどで凄く「笑われるより、笑わせたい」というようなポーズの芸人の番組で、ジミー大西が笑いものにされているのを、凄く怒っていたのは、いまでも鮮明に覚えています。

baseのお客さんのおかん化の話の続き - 一汁一菜絵日記帳

これにづかさんが、凄く極端なことを言っていると思っている人は多いと思うんですよ、ただやっぱりbaseはもちろん、B1角座があった頃の松竹のファンも同じですが、この傾向は東京は良く分からないけれど、大阪の若手と言うよりは、インディーズや吉本や松竹の育成レベルのお笑いライブのファンに、多くなっている傾向なんですが、結局そういうお客さんは「お笑いのことが解らない、普通のお客さん」では無くなっているですよね、それは別にオンバトとかだけじゃなくて、例えば劇場のバトルライブとかって、平日と土日だったら、普段から劇場に来ないお客さんが多く来るので、どうしても場の雰囲気が変わって、受けるネタも変わってくるし、慣れない雰囲気に経験値の少ない芸人は戸惑うし、そしてバトルライブの投票傾向が物凄く変わるんですよね、これに対しての不満というのは、ブログとかミクシィとか少し検索すれば、色々と出てくるわけですが、平日と土日のバトルライブの傾向というのを並べた時に、どっちが将来につながる結果になるのか? ということは自明なんですよね。

『try ワラb(トライ ワラビー)【4】 2次予選』 - ike-chinの日記

顔と名前すら覚えられない組が多い中で、ネタも思い出せない組もいる。私ら一見さんに顔と名前を覚えてもらうということがいかに難しいか。せめて最後のアピールタイムにもう一回出てきてアピールすべきであろう。

これは凄い普通のことだと思うんですが、baseに出始めた頃にジャルジャルとプラスマイナスが、ただこういうアピールしまくっていて、それが一時期までbaseの常連ファンに嫌われまくっていた、とかいう話も聞いたことがあるので、この日の同じライブの感想として、「一見さんが多くて、客席も舞台も浮ついた感じになったのが残念」とか書いてる人もいたし、個人攻撃になりたくないから、そのブログは紹介しないけれど、そういう感覚はbaseに週何回とかで通っている人には、通底してある感覚のように思える。これはbaseだけでなく、在りし日のB1角座や、ワッハ上方のインディーズライブも同じでしょうが。
ただそうやって何が何でも顔と名前だけでも覚えて貰う努力というのは、いまのbaseよしもとのオーディションライブを受けている世代の芸人が怠っているのか? という所を考え出すと、結局上の世代の芸人がそういうことをしていないから、そういうことが格好悪いものとして芸人の側にも、客の側にも浸透しているからで、それはやっぱりそういう客を育てた上の世代の芸人の責任でしょう。

初見とあるけど、実はM-1予選で見ているかもしれないということはある。しかしそれは、顔と名前が一致しないことに帰するものである。

だからこういう見方というのは、凄い正しいと思うし、本来の形だと思うのですよ、僕なんかは突っ込まれるのに弱いところがあったから、つい「初見」だと思って感想書いていても、つい過去の記事とか検索して「あっ見たことあった」と、書きかけの感想をやり直してしまうんですが、芸人なんだから相手に覚えられていないのは、覚えていない方の責任ではなく、覚えられていない方の責任で良い、どこかで挨拶したとかではなく、ネタを舞台の上で見せているわけですからね。
要はキャラ立ちしていないということで、それをネタの本質や中身、深いところを見るためには、そういう所をアピールされるのも、そういう所で浮ついた反応する客も邪魔というのが、熱心に劇場に通って身内化しているお客さんの本音のように、僕には感じられています。
話をさきほど書いた、上の世代の責任というところに戻します。
いまのbaseよしもとのレギュラー陣とか、うめだ花月に行った世代の芸人さんも、「一見さんに顔と名前を覚えてもらう」というスキルに欠けている芸人、そういう事に対する努力を格好悪い事としている芸人は多いと感じています。というかそういうアピールしない振る舞いを「格好良い」という風になっていたり、芸の本質だけで勝負するんだと言ってキャラ立ちしていない人が多い、またそんな芸人のやることに対して、客の側が理解しようと積極的になっているという、はっきりいって身内の空間になっていることが、そういう「顔と名前を覚えてもらうアピール」というのが、格好悪いことになってしまうし、そんなことをしなくても理解して貰えるように、若手のお笑いの劇場がどんどん“身内化”していく理由になっている。
そしてそんな芸人は当然のように、劇場の外では通用しないわけで、結局「2丁目WACHACHA」ブームの構成員が、ほとんどがブームの外では通用せずに、(後に復活した人はいるけれども)一度は消えてしまったのは、単純にこういう事だったと思うのです。
そしてその対策として行われたのが、バラエティの番組を吉本の若手劇場のホーム化することだった。それが「吉本芸人オンリー」の増加という話に繋がってくる。

東京のテレビにも浸食している「吉本芸人オンリー」の番組:昨日の風はどんなのだっけ? - 一汁一菜絵日記帳

なんか僕の元エントリーもそうですし、それの元になったエントリーもそうですが、この違和感の正体は、そういうルールの中にいる芸人さんやファンの人は気付かないんだろうけど、一歩ルールの外の人が見た時の違和感、というものでもあるように思います。
そして話をまたさんまさんに戻すのですが、さんまさんは、「笑われる芸人ではなく、笑わせる芸人になりたい」と言っている若手に対する嫌悪感を、もっとはっきりと表明しても良いと思うんですよね、それこそジミー大西ダウンタウンの番組での扱われ方について、「ヤンタン」で凄く怒っていたことがあったけれど、そういうことをもっと後輩や作家にぶつけても良いんじゃないでしょうか?
これってWコージがよゐこを「シュール君」と笑いものにしてあげることで、彼らの殻を一つ破った話にも似ていると思うのですか、Wコージも同じ事務所じゃないよゐこには言ってあげられるのに、身内の吉本の後輩にはこういう事を言ってあげられないのは、なんかやっぱりいまの「吉本集団芸」の弊害だなあと思ってしまう。
もっとイロモノとして開き直ること、自分一人もしくは相方と二人だけで身を立てていくこと、そういったことが出来るのが、芸人の魅力であって、だからこそ他人に理解されなくても良いし、一家を組まなくても立っていける、そういう所は格好良いと思うんですよ、でもそういう事をしている芸人さんがいまどれだけいるのか?
やっぱりお笑い芸人って、冒頭のにづかさんが書いているように、お笑い芸人なんていうのは、勉強が出来ない奴、運動が出来ない奴、ブサイクな奴、人間的に精神的にどこかおかしな所がある人が、変な格好をしたり、奇声をあげたり、滑って転んで痛がって、身や心を削って馬鹿にされることで、お客さんに笑って貰うという、凄い格好悪いものだと思うのです。でも「だが、それがいい。」と、そういう格好悪いところに、格好良さを見出してしまうのが、お笑いに何かを求めてしまった人間達の病気なわけです。それは演者も、裏方の作り手も、お客さんも変わらない、共通のお笑いに取り憑かれた者達の病気なのです。
でもいまは芸人もお客さんも、最初からお笑いにストレートに格好良いものを求めているのが、そのあたりを歪めてしまっている気がして仕方ないです。二つの違うテーマの話を無理矢理くっつけているように、詠めてしまうとは思いますが、僕にはこの問題ってどうしても繋がっているように思えてならないのです。

  • お笑い芸人なんて格好悪いもの、だからこそ素晴らしい
  • 一般の人はお笑いのことなんか理解しなくて良い
  • 「笑われるより、笑わせたい」なんて寝言は寝てから言おう
  • 芸人への理解が、お笑いの身内化を加速させる
  • お笑いは格好良いから、格好良いんじゃない、格好悪いから、格好良いんだ

笑うとは何事だ!―ラサール石井の平成のお笑い人笑うとは何事だ!―ラサール石井の平成のお笑い人
ラサール石井

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