M-1グランプリの決勝審査員と準決勝審査員のズレについて

まだまだかわら長介先生がどんどん燃料投下してくれるおかげで、まだこの話は続くよ。

M-1の審査 : パタヤビーチ別館

かわら長介決勝の結果と審査員への不満のエントリーについて、紹介してくれていますが、要点が巧く整理して引用してあるので、パタヤビーチさんの方だけ読めばいいと思います、かわらさんの本エントリーは何度も紹介しているので、この記事に目を止めているような人は既読だと思いますし(一応リンクはしておきますが)。
結局M-1グランプリは創設者の島田紳助松本人志が、「松本紳助」とかで構想段階から、どういう内容にしたいという話をしてくれていたので、お笑いファンには明確な基準が提示されている、と思っていたんですが、案外これが浸透していないなというのは、去年のM-1終わりから感じていたことです。フジテレビのプロデューサーとかも「M-1は基準があいまい」とか言い出しているし、よく考えたら去年でM-1は七年目で、「松本紳助」でM-1の企画構想を紳助と松ちゃんが語っていたのは、もう8年前になるんですよね、そりゃ忘れるというか、下手したらこの辺のM-1の成立過程というのを、知らない人も若いお笑いファンには多い気もするので、書き出していくと、「単純におもろい奴を決めるコンテストがしたい」というパタヤビーチさんが引用しているもの以外にもありました。
まず「優勝賞金は1000万円」「主催者や放送局は優勝者の今後について責任を持たない(副賞にレギュラーの冠番組を用意するなどしない)」ということは、最初から言っていた、その瞬間一番面白い人たちを優勝させたいから、将来性やタレント性を考慮したくないという意図は、始めから提示されていた「売り出してやる保証はないけど、法外な賞金でモチベーションを持って貰う」という発想は島田紳助らしいと、当時感心したのを覚えています。「スターへの階段」というのは後から結果的に付いてきたものとして、認識していればいいでしょう。
ただこの辺の将来性の加味というのを、初期の大会で紳助、松ちゃんの二人が笑い飯に対してやってしまったことが、準決勝の審査員が現時点では力が足りないけど、将来性や新規性を見てほしいという方向に、審査傾向の針が振れる原因になったとは考えています。
そして審査基準とまでは言いませんが、当時明確に二人、特に紳助が言っていた副次的な評価基準の指針として、「いまの若手がダウンタウンのモノマネみたいな漫才ばかりになっている(のを何とかしないといけない)」というのがあり、松ちゃんもそれは静かに賛同の意を表していました。
それで始まった第一回大会では、当時はダウンタウンの影響が色濃い漫才をしていた、キングコングフットボールアワーチュートリアルにかなり厳しいジャッジが下される結果になり、三組はその後に自分たちのスタイルを作り上げて、それぞれ再びM-1決勝に上がってきた際に、高い評価を得るようになりました。
でもその後も準決勝から決勝に、いわゆるダウンタウンスタイルの漫才をする人たちが、しかも自分たちがダウンタウンエピゴーネンと言われるような漫才していることに、下手したら気付いていないかも知れない人たちが、毎年何組か上がっているんですよね、ただ結局その中で優勝争いまで行って、実際に優勝したのって、あの日あの瞬間寄せ付けない何かを出すことて、圧倒的に「あの日あの瞬間に一番面白いこと」が出来たブラックマヨネーズだけで、他は全員目立たないか、怪我する結果になっている。
(少し余談ですが、このダウンタウンにそっくりという評価は、去年のM-1でも一部の芸人への感想で何人かが使っていたけど、ダウンタウンが漫才しなくなって20年、テレビでコント番組とかをやらなくなってからでも、10年近くになっているわけだから、いまのお笑いファンには伝わらないかもしれないとは思う、それを言えばいまの若手のダウンタウンの猿真似漫才だって、ダウンタウンの猿真似していた人の猿真似をしている段階に入っている。)
でも準決勝の審査員は世代的にほとんどが50代で、もうダウンタウンで完全に感性が止まっているんじゃないか? というかダウンタウンのような漫才が漫才の新規性の鉱脈で未だにあり続けているのではないか? という疑念が僕は拭えないんですよね、実際にM-1グランプリに限らず、大阪の賞レースって、ダウンタウンみたいなのが強いというのは延々と変わっていない。かわら長介「以来今日までダウンタウンのエピゴーネンは後を絶たない。」と言ってるけど、でも実際にM-1グランプリABCお笑い新人グランプリで本選に上がっているコンビって、ダウンタウンのようなスタイリッシュな、ダウンタウンの出現以降に正統派と言われるようになったタイプの漫才で、違うベクトルに挑戦している人たちが、凄い回り道させられているようにしか、僕には思えないし、そういう指摘は多いことについて、基準を言うだけでなく、結果に対する基準のどう当てはめているかについて、もう少し説明して貰いたい。

でも、かわら長介は上記エントリー中にも書いているように、今までにない切り込み方が出来ているかどうかで採点してしまっている。まあ、ある意味客観的な基準ではありますが、今一番笑えるヤツを決める大会でそんな基準持ち込んでどうすんのよって感じです、個人的には。
M-1の審査 : パタヤビーチ別館

でも「今までにない切り込み方」という評価基準が、きちんと当てはまっているのか? という疑問も強くあるんですよね、先ほどから言ってるように、結果的に上に上がっているコンビが「ダウンタウンエピゴーネン」ばかりじゃない? という疑問を持つ以上、そこをもう少し言語化して説明してくれよと、逆に言うとそこを言語化して説明出来ないのなら、中途半端に準決勝の感想とかをブログとかで書かない方が良くないですか? かわら長介が漫才について理想を掲げている、それは熱く言語化されて僕たちに伝えてくれている、それは素晴らしい。そしてそれを具現化してくれているのが、笑い飯、千鳥、麒麟であり、キングコングサンドウィッチマントータルテンボスPOISON GIRL BANDはそうではないというのなら、どの部分が違うのかというのを、もっと明確に言語化してくれないと、単に自分の好きな人たちを、自分が掲げた理想の条件に当てはめているだけにしか聞こえない。

それにしても「客の事を考えろ」って言ったかと思ったら
「客の笑いが全てじゃない」って言ったりどないやねん!とw
「66〜2007M−1準決勝??」:かわら長介 たくらだ堂

サンドウィッチマンジャルジャルについて書いている所を読むと、やっぱり僕も「アンタの好きな笑い飯や千鳥にも言える事なのでは?」と感じてしまいますね、理想を語っているときは熱くて論理的だけど、現実について語り出したら二重基準と贔屓の引き倒しのオンパレードというのは、やっぱり審査員としての適正を疑わずにはいられない。そんな審査基準でやるのなら、新野新のように自分の名前で主催のコンクールをすればいい、「純粋にこの瞬間一番面白い漫才を決める」という趣旨の大会の審査員でやることではない。
POISON GIRL BANDの準決勝の感想で、まあ自分は推さなかったよみたいな事を書いていて、「後出しで自分はこの最下位コンビ推さなかった」と言っていると感想していた人がいましたが、僕はそうは思っていなくて、これは「なんで松ちゃんは客受けしていなかったPOISON GIRL BANDに90点付けたのに、僕が優勝だと思った千鳥には、客受けていなくても高得点付けてくれなかったんだ」という気持ちが、現れているんじゃないかという風に感じてしまいました(笑)。でも審査員の中で一番客受けに引きずられない審査していた松ちゃんが、個人採点で千鳥を単独で最下位にしていて、その後のラジオとかでも触れていないし、毎年松ちゃんは千鳥に対しては厳しめなんだから、今でも松ちゃんと長さんは一緒に沢山仕事しているんだから、一度松ちゃんがどう思っているか聞いてみたらいいのにね(笑)。

結局、自分の好みのコンビが評価されず
好みじゃないコンビが優勝したから
だだをこねてるだけのようにしか見えないんですよね。
やっぱり、こういう人に審査員をさせるべきじゃないと思います。
「66〜2007M−1準決勝??」:かわら長介 たくらだ堂 : 一汁一菜絵日記帳

さっきのPOISON GIRL BANDへのコメントもそうですが、物凄い受けていたコンビに対して否定するときのコメントって、2007年のサンドウィッチマンや2006年のプラスマイナスの感想もそうですが、抽象的な事を延々と言って終わっているんですよね、「未来が見えない」とか、それはもう完全に評価ではなく好き嫌いじゃないの? あと上で引用したような「客の事を考えろ」って言ったかと思ったら「客の笑いが全てじゃない」と言ったりとかも、自分の好き嫌いで使い分けているようにしか思えないし、その上で最終結果に関係者として参加しながら文句をダラダラと言い続けるのは、それはもうプロの審査や批評ではなく、ファンのヒステリーでしかないですよ。
松ちゃんがラジオで笑い飯について、「予選ですごいウケるから、このスタイルでいいと思ってしまうのではないか」と言っていたというのは、普段の松ちゃんの大阪のお笑いファンアレルギーがあるから、「大阪の客が悪い」という言い分は、話半分に聞いておくべきではありますが、でも「笑い飯を勘違いさせてる、M-1予選を見に来るような大阪のお笑いファンが悪い」ということを暗に含んでいる発言だと思うんですよ、これって、そのぐらい松ちゃんは大阪のお笑いファンに悪いイメージの偏見を持っている、でも笑い飯(と千鳥)は確かに大阪のお笑いマニアみたいなファンに甘やかされていると思うよ、僕もつい二、三年前まで甘やかすお笑いファン陣営にいたから分かるし、自省も込めて言いますが、大阪のお笑いファンってマニアックなファンほど、贔屓の芸人を甘やかすというか、優しく見守りすぎる傾向は、松ちゃんに言われるまでもなくあると思う、そしてその芸人を甘やかすマニアックなファンに、かわら長介とか倉本美津留が含まれているというのが、余計にややこしいんですが、でもも大阪のお笑いマニアにそういう風潮の土壌を作ったのって、僕は絶対に松ちゃんのせいだと思っているけどね(笑)。
だから大阪でキャアキャア言われていない、プラスマイナスはともかく(笑)、あんなにキャアキャア言われているのに、自分たちのスタイルがこのままではダメだと早め早めに気付いていって、一定の評価を得ているタイミングで、何度も変えてきてあそこまで作り込むことに成功した、NON STYLEはもっと評価されるべきだと思うよ、あの二人の自分たちに対する客観視能力は凄い。いまの大阪の若手芸人に一番欠けてるスキルがあるのは、本当の意味で「雑草魂」が育つ道を歩んできた強みでしょう。僕はNON STYLEやプラスマイナスやなすなかにしは、大阪でダウンタウンの次の新しいスタイルを作り出していると思うけど、でも審査する側が「ダウンタウンのNEXT」と言いながら、ダウンタウンという物差しでしかもう判断出来なくなってるんじゃないの? という疑念は捨てきれないですし、それを捨てるだけの説明は、少なくとも唯一審査について語っている長さんは、出来ていないと思います。
ダウンタウンを物差しにする云々は置いといても、決勝の審査員が大衆に近い目線で、その人に各一番面白いコンビという審査しているのに、準決勝の審査員が違うというのは、今後も不幸な結果を決勝に選ばれた人も得をしない結果が出てしまう。せっかく新しい誰もやっていないスタイルの漫才をやっても、大衆に伝わらなかったら、広まることは決してないことを分かっている決勝審査員と、そうではない準決勝の審査員の審査基準は、やはり一度きちんと摺り合わせておくべきでしょう。番組や大会の趣旨や当初の目的とズレた審査が準決勝で行われているとしたら、それを是正するのは立ち上げ人であり、大会の組織委員長であり、審査委員長である島田紳助の大切な仕事だと感じています。

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