まあ確かに「書く側の義務」ってのはありますよね。 : ゾミ夫

評論権は万人に与えられている……が、 : NOT FOUND−演芸雑想ノート−

基本的に僕が言いたいことは、全部先に新田さんが指摘しちゃってるし、更に僕なら言ったであろうことも、それに対する回答として菅谷さんが「これは僕が逃げてるだけ、みたいなところがあります。」と、自分で言ってしまってるから、特に何も言うようなことがない気がするんですが(笑)、補足みたいな感じで話していきます。
もう既に新田さんが言ってくれている部分ですが、僕は菅屋さんの意見を先に読んだときには、「そんなこといったら、お笑いとかだけでなく、全てにおいて時評的なものは何も出来なくなるよ」と感じました、ある時期のあるものだけを書くときに、それが後で間違いだと分かったらどうするか? ということですが、それが何の問題があるんでしょうか?
僕も例えば、昔は面白いと思っていた物が、時が経って面白くないと感じるときがあったり、その逆も多々ありますし、これはダメだと思ったものが、ある日凄い素晴らしいと思うこともあります。それは芸人や漫画家といった側が成長して面白い物を出せるようになったという場合もあれば、僕の側の見方が変わった、受け止める度量が広がったとか狭くなったとか、その両方だったりということもあるし、受け手や送り手は特に何も変わっていないけど、世間の状況が変わることで、その作品に新たな意味が加わるとか色々とあるわけで、「何故、評価が変わったのか?」「この時期に自分は、今から見たら的外れと思うことを書いたのか」というのは、恥ずかしがるべき事ではなく、自己の成長の証と思えばいいと思うし、その評価が変わった理由を考えて文章にも出来るわけで、ネタを作る一つのきっかけが出来たと喜ぶべき事です。
少なくとも僕は、自分の中でチュートリアル、ライセンス、ロザンの評価が上がった瞬間は、いままでダメだと思っていたことがどう無くなったか、この人たちは変わっていないけど、僕の受け止め方が変わったところを考えるのは凄い楽しかったし、ここ一、二年で自分の中の評価が急落した人について考えるのも、色々な発想を導く良い思索だったと思います。
三年とか四年単位でWebに日記やブログを残していると、「三年前のおまえはこんな逆のこと言ってるじゃないか」的な指摘はされることは沢山あると思いますし、唐沢さんと岡田さんの「オタク論!」の中でも話題に出ていましたが、それはそんな指摘をする奴がくだらないだけで、人間って言うのは考えは変わって当たり前のことなんだから、それが人として成長すると言うことですよ、時評っていうのは、その瞬間に自分がどう感じたかで良いし、それは極端な話、昨日と今日と明日でもう考えが違っていても良いと思うし、僕は大衆芸能というのは流行り物であるべきだと思うし、流行りものというのはその瞬間に時評的に語られて、意味があるものだと僕は思うし、そういうのを積み重ねていくことというのは、重要なことだと思います。

それを踏まえた上で書きますが、リンク先の文章で書かれている“お笑い評論はお笑いサポーターではない”の件。これまでの記事の流れを考えると、これは「お笑いサポーターだけじゃなくて、それ以外の大衆にも語る権利はある!」ということだと思います(間違っていたらすいません)。しかし、大衆はあくまでも大衆でしかありません。僕自身を省みずに書きますが、なにかしら惹きつけられる評論でないと読者は集まりませんし、その評論から説得力は生まれませんし。
評論権は万人に与えられている……が、 : NOT FOUND−演芸雑想ノート−

もちろんそうでしょう。その通りだと思いますよ、ただ僕はもう少し踏み込んで言わせて頂くと、例えばプロの評論家とかライターなら商売として、人を惹きつけるような文章を書かなきゃいけないけど、駅前で喋っているお笑いのこと分かっていない女子高生とかは、それで惹きつける必要なんて無いんですから、分かっていない好き勝手なことを言っても良いんですよ、それもまた評論だし、「表現の自由」として守られていることなんですよ。
芸人の事なんて分かっていないアホな奴の悪口同様の評論も認める変わりに、芸人はPTAとか頭の固い人たちが眉をひそめるようなこととか、笑いものにする対象があるパロディとかもやって良いんですよ、いまの評論されるの許さない的なことを言ってる芸人さんは、「自分たちは芸人なんだから、笑いの為なら何しても良い」というのを直ぐに振りかざすクセに、自分たちが批評や批判の対象にあうことには、極点に嫌悪感を示したり臆病になって、上の立場からそれを封じようとするのは、矛盾しないかい? というのは先日のにづかさんとのやり取りで述べた通りです。

他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない : タケルンバ卿日記

この件は僕も書きましたが、菅谷さんに限らず、「良い評論、悪い評論」という話に持って行かれることが多かったんですが、僕は的外れなこと言ってる人であっても、お笑いとかマンガとか映画とか音楽に対して語ることをダメ出しするべきではないと思います。
それは歌が下手な人に唄うことをを禁止する、絵が下手な人に絵を描くことを禁止するようなもので、そのことについて語りたいという人がいたら、それは自由にやらせるべきであり、その結果出来たものが愛のない分かっていない単なる悪口だった場合、それは受け手が流していけばいいだけなのではと思います。
今回の場合は元のネタ元になった映像での芸人さんが、評論と悪口を混同している形で批判していたので、ややこしくなってしまいましたが、にづかさんもこちらでコメントしていますが、現在のところ芸人さんに限らず、スポーツ選手やクリエイターというのは一段エライ人という扱いを受けている訳で、そんな立場が上にされている人が評論家とか市井の視聴者の意見に対して、本気でムキになって反論するのも、ひ弱だなあと思うところはあるんですが(麻生香太郎に反論している松ちゃんなんかは別ね、いま見ると分かんないけど、あの当時はどう考えても麻生香太郎の方が一段上から物言ってる立場だった)、一つ上の立場からそれ自体を封じるような物言いをするのは、格好悪いよと思うんですよね、やっぱり僕もお笑い好きだから、芸人さんとかを一段上に見てしまうところがあるから、尊敬すべき存在の人たちが、細かいことで怒ったり、権威を振りかざして何をか封じ込めようとしているのは、ガッカリしてしまうんですよね、僕たちは世代的に80年代後半から90年代にかけて、たけしさん、さんまさん、上岡さん、鶴瓶さんあたりがカリスマになっていく過程を見ているから、この辺の人たちの許容して取り込んでいける大きさというのと、どうしても比べてしまう。あの人たちがカリスマとして、一時期の日本の一部の若者のリーダーたり得たのは、「芸能人には大物かつスマートであってほしい」という夢や幻想を託すに値するぐらい、大物の振る舞いを知っていたし、実践してくれていた。
話を戻しますが、お笑いに愛がある、お笑いに理解があって知識もある人の方が、良い評論を書ける可能性は高い、人の心に届くものが書ける可能性は高いけど、別に愛も理解もない人でも書いたり語る権利は等しくあるべきだと思うし、そこから傑作が全く出ない可能性だった無いと思います。
あと優れたお笑い評論が芸人さんにどう受け止められるかだけど、それについては良い評論が芸人さんに良い影響を与えるケースがあったら、それはめでたいことだし、そういう事例が多いに越したことはないけど、お笑い評論はお笑い評論を読みたい読者の為にあれば良いのであって、お笑いそのものへのフィードバックは、あるには越したこと無いけど、それにこだわる必要は無いんじゃないでしょうか? 「アニメ評論はアニメの発展のためにあるのではなく、それそのものが作品である(大意)」というアニメの部分を、お笑いに置き換えて考えて良いのではないでしょうか?
あと菅屋さんもタケルンバさんも書かれているので、少し触れておきますが、僕は大義のお笑い全般で論じて良いと思う、それぞれ得意科目として漫才とかコントとか落語とか軽演劇とかがあって、得意不得意みたいな物はあるにしても、広くお笑いというジャンルの中にあるサブジャンルで、サブジャンルに特化したい人はしたらいいけど、マンガ評論家の人が専門得意ジャンルというのはあっても、全てのジャンルのマンガが語れるように、落語の文法で漫才やコントを分析すること、演劇の文法で落語やスタジオコントを分析することは、十分に可能であるし、実際に優れた評論家や実作者によって、そういう分析は沢山語られているものがあるから、僕は細分化して分析していく人、得意な部分に特化させる人はいてもいいと思うけど、お笑いというジャンルをサブジャンル事に分解して、一つのジャンルとして独立してしまうことの意義はよく分からない。