須田鷹雄の藤田批判に見る お笑い競馬ライターの葛藤 : 馬券日記 オケラセラ

競馬のライター : 嵐猫

これいま僕も参加している、「お笑い批評は可能か?」にも繋げることが出来る話題だと思っているんですけど、結局日本のマスコミと海外のマスコミの違いって、競馬にしてもサッカーにしても芸能や映画やアニメの評論や批評、報道をする際において、良くも悪くもプレイヤーに気を遣って書いてる、もっと言うと顔色伺いながら書いてる所なんじゃないかと、この二つの話を平行していて感じたんですが、日本でガイドブックは成り立っても、批評が成り立たないというのは、もちろん直接的要因として、悪いことを書いたりしたら、取材拒否とか、広告止められるとか色んな事があるんでしょうが、多くの評論家とかマスコミって言われる人たちの中には、プレイヤーに失礼なことしてしまう奴らも多いけど、やっぱり基本的には、プレイヤーの顔色伺って書いてることの方が多いと思うし、そういうのがサッカー選手と御用ライターとの関係とかも産んでいるんだろうなあと考えています。
あとファンの方の問題として、プレイヤーに対するリスペクトが強いというのは、凄い良いことではあるんですが、日本で欧米のように評論が成り立たない理由として、ファンがプレイヤーに対する批判や批評を過剰に許さないというのは、絶対にありますよね。
だって結局この件でも、須田さんが問題意識を持って、ある騎手の行動について疑問を呈しても、結局須田さんの公式掲示板で、須田さんのファンが集まっている場所ですら、プレイヤー側を擁護するようなコメントの方が多く寄せられてしまうわけで、これが欧米なら特別な才能を持っていることが、社会性が無いことが許されないから、いくら騎手として素晴らしくても、批判されるべき所が批判されるんですよね。
だから「嵐猫」さんもそうだけど、海外と日本のサッカー記事や競馬記事を読み比べれる環境にある人が、日本の方に物足りなさを感じるのは、その辺を中立的にプレイヤーに対して厳しいことを書く媒体が現れても、受け手であるファンの側が、それを支持しないということはあるのかなあと思います。マスコミはダメだから、ブログが変わってという流れにならないのは、ブログの方がもっとそういう声に直接的に晒されちゃうから、日本の状況だとブログの方がかえって批判記事が書きにくい状況は、出てきかけているように思います。
御用ライターの提灯記事で、実は読者の多くも満足しているし、そういうのしか読みたくないと思っているところは、あるんじゃないかなあと思います。
だから須田さんが「お笑い競馬ライター」という肩書きを捨てて、次のステージに行けないというか、行こうとしない理由として、自分が問題意識を持っていることを、ストレートに出していっても、結局そこまでの問題意識をファンが持っていないから、凄い独り相撲になってしまう不安というのは、凄い須田さん持ってるんじゃないかなという風には、考えるようになりました。結局この件でも、須田さんの問題意識を受けて反応している人たちって、言っちゃ悪いけど自分も含めて少数派過ぎる状況ってあるわけで、多くの人は須田さんのこの話を読んでも、「藤田さすが無頼派、格好良い」みたいな感想の方が沢山付いちゃうのを見ると、やっぱり須田さんは「お笑い競馬ライター」という肩書きから、“お笑い”を外す気には、ますますなれないかなと思います。